葉的MANHATTAN☆HOUR
「隠れた偏見」にどう対処する?

【2016.07.23 Saturday
08:37

こんにちは。北半球はどこも夏になってきましたね〜。ニューヨークは今年、かなり暑い7月でした。毎週のように友人たちと海岸に出かけているので、すっかり日焼けしてしまいましたよ!

さて、先日「職場での偏見にどう対応するか」というパネルディスカッションを聞く機会がありました。内容が興味深かったので、覚えている限りを少し書いてみたいと思います。偏見や差別には「これで全てピタッと治る」万能薬はないし、正しい対処法、という方程式もないけれど、人づきあいをよりよくする何かのヒントになりますように。

このパネルディスカッションのメイン・スピーカーは弁護士資格と社会学の博士号を持つアリン・リーブス博士。パネル・スピーカーは大手法律事務所のベテラン弁護士や大企業の主席法務担当弁護士、新進の若手弁護士などでした。

用語について

1. Black(黒人)という言葉にも一種のスティグマ(傷となる要素)があり、African American(アフリカ系アメリカ人)という表現を用いることも多くあります。ただ、近年の米国にはカリブ海諸島やアフリカ、はたまた英国やフランスなどの国籍を持つ肌が黒褐色の人もいるので、アフリカ系アメリカ人、と言ってしまうと差別の対象となっている人の全体を指すとも限らないという状況が生じることあります。古くは「Black Is Beautiful」、近年では「Black Lives Matter」というフレーズに見られるように、black(黒人)という言葉は必ずしもネガティブな意味で使われているとは限りません。よって、本稿では黒人という呼称を用います。

2. マジョリティ、マイノリティという言い方を下記で使いますが、「マジョリティ」は「過半数」であるがゆえに社会で権力や便益を持つ場合(例:米国全土としてみた場合の白人、など)もあれば、数としては必ずしも過半数でなくとも社会構造として権力や便益を持つ場合(例:僅差はあるものの男女比は大抵半々だが、社会において女性はマイノリティ扱いされている)もあります。基本的には、「社会または該当集団において権力や便益を持つ小集団」という意味で「マジョリティ」、そして「社会または該当集団において権力や便益を持たず、どちらかといえばスポットライトの外側に置かれる存在」という意味で「マイノリティ」という言葉を使っています。

下記はディスカッションの内容を思い起こして再録したものです。これが「正しい処方箋」だというのではなくて、ニューヨークである日ある時ひとびとが集まって意見交換してみた、そのリポートであり、「考えていくためのヒント」だと思っていただけると幸いです。(字数が多いので、テキパキと話を進めるために、以下「だ・である」調に変えます。)

* * * * *

「潜在的偏見」について

偏見には、顕在的なもの、つまり意図的に、そうとわかっていて持っている偏見だけでなく、潜在的なもの、つまり全くそうと意識せずに持っている偏見がある。偏見そのものは、我々みんなが持っている。

たとえば、顔が見えない相手と何度も電話で話した後、はじめてその人に直接会った時、(あれっ、こんな人だったの?)と驚くことはありませんか? あるいはソーシャルメディアでいつも「話し合って」いる相手と会ってみて、想像とちょっと、あるいは随分、違っていたということ、ありませんか? その人は会う前からずっと変わっていないのに。こちら側の脳が、「こんな話し方をするならこういう人だ」とラベルを貼って、想像上のその人(じゃないのにね、本当は)を作り上げてしまう。

あるいは、「きいろ」という文字を見て何を思い浮かべるか。「スポーツ選手」という言葉を見て何を思い浮かべるか。実際の「それ」や「その人」を見たり味わったり話したり、体験として「知る」前から「こういうものだろう」と仮定する心の動き、それは広く言えば「偏見」のひとつ。

顕在的な偏見に基づく差別(たとえば、国籍や肌の色や出自に基づいて意識的にそのひとにラベル貼りをすること)は、社会的には概ね「よくないこと」という認識がある。まだまだ世の中にはそうした偏見や差別が蔓延しているけれども。

けれども一方の潜在的偏見は、より厄介なものと言える。なぜなら、偏見を持つ側が、自分が偏見を持っていて、それに基づいて相手にラベル貼りをしたり差別している、という自覚がないから。パネルディスカッションで提示された例としては、たとえば

例1)複数の白人弁護士について行ったリサーチでは、白人の同僚をランチに誘うときには「we」という言葉を使った(「僕たち、ランチは何を食べようか?」)のに対し、非白人の同僚をランチに誘うときは「you」という言葉を使った(「君たち、ランチは何を食べたい?」) 彼らは、相手の肌の色によって「仲間」と「仲間じゃない同僚」を分けていることをまったく意識しておらず、結果を知らされ、驚いていた。

例2)全く同一の論文を100人のベテラン弁護士に評価してもらった。うち50人には「これはジョー・スミスという白人の学生が書いたものです」と紹介し、残りの50人には「これはジョー・スミスという黒人の学生が書いたものです」と紹介した。白人学生の論文と思って読んだベテラン弁護士たちの評価は「素晴らしい」というもの。黒人学生の論文と思って読んだベテラン弁護士たちの評価は「まだまだ力が足りない」というもの。論文そのものは同じなのに、書いた人間の肌の色に基づく潜在的偏見があることが裏付けられた。

例3)ある女性弁護士は、初めて就職した職場で唯一のラテン系女性弁護士だった。白人男性のベテラン弁護士とエレベーターで一緒になった時、「君は誰の秘書なのか」と聞かれた。「いえ、私は新しく入った弁護士で、名前は…」と自己紹介したが、その後何度も、同じ弁護士とエレベーターで一緒になるたびに、やはり「君は誰の秘書なのか」と聞かれ続けた。

例4)非白人の場合、たとえ完璧な米英語を喋っていても「あなたはどこの出身なの?」と聞かれる率が高い。これはムスリムのスカーフをかぶった女性の話だが、「ニューヨークです」と答えても、「もともとの出身は?」と聞かれる。(生粋のニューヨーカーでムスリム、ということもあり得るのに)

潜在的偏見の厄介なところは、その偏見の対象となる者には「ああ、偏見を受けているな」とわかるのに、偏見を持っている側にはまったくその自覚がないこと。経験ありませんか? 「あの子は〜の割には…だよね」という言い方。自分もうっかり、そんな言い方、していませんか? 

そして、潜在的偏見には困った「補強効果」の傾向がある。自分の抱いていた潜在的偏見が「ハズレ」だったと判った時、人は一瞬驚く。でも自分のもっていた偏見がハズレだった場合、それを忘れてしまうことが多い。けれども、潜在的偏見にたまたま合致する例に出会うと「やっぱりそうなんだ」と思い、その潜在的偏見が補強されてしまう。

潜在的偏見による一般化(例:「〜人はこうだ」という思い込みなど)を変えていくには、それが「偏見」であるということに、偏見を持つ側が自分自身の言葉や印象的なやりとりなどを通じて気づいていけるよう、粘り強く対応していくしかない。

頭に来たり傷ついた時は、まず、depersonalize(脱個人攻撃化)すること

ある黒人女性弁護士は、インターンをしていた時、刑事事件担当チームに入った。チームのリーダーは白人男性で、他のチームのメンバーもみんな白人。証拠となる被告のテキストメッセージをみんなで読んでいた時に、黒人を差別する言葉が書いてあり、リーダーはそれを繰り返し声に出して読み上げた。(解説:米国史、特に差別の歴史を知らないとピンとこないかもしれないけれど、これは黒人にとっては非常にショッキングな言葉で、深く傷ついてしまう。黒人同士の俗語でわざとこの言葉を使うこともあるけれど、非黒人が使うべきではない。)

彼女は独りだけみんなから指差されたように感じ、驚き、深い悲しみと傷を負った。数日間悩み、非白人の助言者に相談した後、チームリーダーに話をしに行った。「もちろんそんな意図はお持ちでなかったと思うのですが、あの時こんな言葉を使われましたね…」と。リーダーはハッと気づき、謝ってくれた。

法律事務所も企業と同じ、ピラミッド型の構造はある。「正論」をまっすぐぶつけることで、自分の立場そのものが危うくなることもしばしばある。相手が隠れた偏見に気づいていない時はリスクも大きい。(顕在的な偏見である場合は、また別の問題、大きな問題となるけれど。)

自分が偏見を受けがちなマイノリティ・グループ(非白人、女性、LGBTQなど)の場合、あたかも「個人攻撃」されたかのような衝撃を受けてしまい、自分が仲間はずれにされているように感じ、深く傷つくこともある。感情が昂ぶっている時にそれをぶつけると、少なくとも職場という環境では、たいていポジティブな結果にはならない。感情が鎮まるのを待って、冷静で客観的な対応をした方が良い。(これはケースにもよるし、状況によっては「戦いの相手を選ぶ」ことも必要。)

理想的な世界ではそんな偏見など無くなるべきだけれど、我々はまだトレイル・ブレイザー、「道を切り開く者」たち。本来は、偏見を持つ側が是正するべきことだが、何しろ相手には自分が偏見を持っているという自覚さえないので、その場の状況としては不公平だが、我々が頑張らねばならない。

潜在的偏見を持つ言葉や振る舞いに対応するときは、「何のために」するのかも考えるべき。自分の気持ちがスッとするから、というだけの理由なら、少なくとも職場においてはむしろ何も言わない方が自分のためだろう。けれども、「同じようなことが二度と起こらないように」、相手が気づいていない偏見への気づきを与え、再発を防止するためなら、対応していくべき。

またある弁護士は、駆け出しの頃、自分の属する法律事務所と相手の法律事務所との白熱した議論の最中に、相手のベテラン弁護士から靴を投げつけられた体験を語った。相手の弁護士は「このボーイ、ちゃんと文章も書けないのか!」と怒鳴ったという。人は、あまりにもひどい状況に直面すると、恐怖や困惑に凍りついてしまうことがある。彼の上司もあまりのことに凍りついてしまい、彼自身が対応せざるをえなかった。本来なら相手に掴みかかりたい気持ちに駆られたが、深呼吸をし、冷静さを保って、交渉を続けた。後から上司に「なんといっていいかわからなかった。守れなくて申し訳なかった。この交渉は、君の方が向いているようだ。今度から、こうした交渉は君に任せる」と、昇進につながる任務を引き受けるきっかけになった。

緊張状態をどう和らげる(Diffuseする)か?

潜在的偏見に直面した場合、こちら(偏見を受ける側)にはグサッ、ピリッ、と来るのに、相手は全く無邪気で、そうした言動に気づいていないことがある。相手がクライアントだったり上司だったり、あるいはチーム全員がマジョリティで、自分だけがマイノリティに属する場合などは、ユーモアや「質問」の形でやんわりと相手に気づかせることが自分のためにもなる。(正論で戦うのは、とてもエネルギーのいることだから、より効果的に「道を切り開いて」いくためにも、自分に負担の少ない戦い方を身につけたほうがいい。)

例えばユーモアを交えて応えること。

ある黒人女性弁護士は、「これ本当によくあることなんだけど」と前置きして言った。例えばその場にいる黒人が自分一人だけの場合、「黒人の人はどう考えるの?」とか、その場にいる女性が自分一人だけの場合、「女性はどう思うの?」と、所定のマイノリティ・グループの「代表」にされてしまうことがある。聞いてくる相手は公平さや多様性を反映させようとしているのかもしれないが、裏にあるのは「黒人はみんな同様に考える」「女性はみんな同様に感じる」という潜在的偏見。

彼女は、「そうね、わたし個人の意見を聞きたいならお答えできるけれど、わたしは黒人(あるいは女性)代表じゃないから…それにかなりユニークな存在だしね」と返す、と言っていた。

あるいは、質問の形で応えること。

例1)一週間のうちに二人の黒人男性が警官に射殺され、同じ週には別の黒人男性が警官数名を射殺するという事件が起きた後のこと。別の弁護士は、ある朝出社した時、建物の前でBlack Lives Matterの抗議行動が行われているのを見た。彼女と一緒にエレベーターに乗ったのは二人の白人男性。一人がその抗議行動のことを話題にすると、もう一人が「まったくいい気なもんだよな」と言った。相手の名前も部署も知らないし、エレベーターはもうすぐ自分の階に着いてしまう。何か言おうか? 何が言えるか? 彼女がやっと取れた行動は、(なんてことを)という意味を込めて首を横に振り、エレエーターを降りることだった。

こんな時どうしたらいいんでしょう? という問いに、パネリストの一人はこう答えていた。

「どういう意味ですか?」と聞いたらどうかしら。

質問の形にすることで、(1)もしかしたら誤解かもしれないから、質問として投げることで自分が「仮定」するリスクを防げる。(2)質問された相手が、自分の言葉を振り返るきっかけを作れる。

相手の反応は、最悪な反応の場合、攻撃的かもしれない。でも「え、別に意味なんてないですよ」というふうな、曖昧にそらす言葉が返ってくる可能性もあるだろう。いずれにせよ、質問をすることで、相手やそこに居合わせた他の人たち、もしかしたら(おそらくは)自分の持っている潜在的偏見に気づいていない人たちに、ハッと気づかせるきっかけになる。

例2)微妙な反応の場合はどうしたらいいのでしょう?という質問もあった。例えば相手が、自分の報告した内容に対して、言葉にしないまでも嘲笑するような表情を浮かべたり、眉間にしわを寄せたりする場合。

これに対しては、「このことについて、どう思いますか? あなたの意見が聞きたいんです」など、相手が「言語化」する機会を促す、という提案があった。あるいは、曖昧なpassive aggressive(受動的な攻撃性を持つ)反応が返ってきた場合は、「どういう意味ですか?」と聞く、など。中立的な聴き方をすることで、むしろ相手にスポットライトを当て、対立を防ぎながらも相手にソフトに信号を送ることができる。

例えば「いや別になんでもないよ(Oh, never mind)」と言われたら、「わかりました、なんでもないんですね(I’m happy not to mind it, then))と繰り返すことで、そのやりとりが相手の頭に残るようにする。

世界は完璧ではない

「何のために自分はそこにいるのか」を考えることが重要。職場は社会そのものと同様、いろんな人がいる。職場の全員と仲良くなることはないかもしれない。毒を含むようなネガティブな状況なら話は別だが(別の職場を探したほうがいい)、あくまでクールな付き合いだけ、という相手もいるだろう。仕事をするため、あるいはキャリアを積むためにいるのなら、ある程度割り切って進んでいくことも大切。

* * * * *

以上、覚えている限りでのリポートです。

「これですべて解決!」という万能薬はないけれど、例えば潜在的偏見の一方向性(偏見を受ける側は感じるのに、偏見を持っているそもそもの原因である側は自覚がない)を認識することや、「質問」を使って返すことで相手に相手自身の言動を気づかせるという方法は、自分にとっては新鮮な情報でした。

多くの人は、あるカテゴリーにおいてはマジョリティだけれど、別のカテゴリーにおいてはマイノリティ、という場合が多いと思います。(例:日本社会においては、日本国籍を持つ女性は国籍上はマジョリティだが性別に基づく社会的「階級」はマイノリティに置かれている。一方、例えば在日韓国・朝鮮人の男性は国籍上はマイノリティだが性別に基づく社会的「階級」はマジョリティ。日本国籍を持つ男性だが自認性別が男性でなかったり、恋愛感情を抱く相手が女性でない人はLGBTQとしてマイノリティ、etc…) 

自分の中の「マイノリティ」性については、自分が偏見や差別の対象となることも多いために敏感になりがちだけれど、自分が「マジョリティ」である部分において、マイノリティである誰かを、自分の潜在的偏見によって傷つけることもあるかも、とも思いました。人間関係に「臆病」になる必要はないけれど、いろんな角度でものを見ようとすること、お互いに気づきを促進できるような会話力、対応力を身につけること、意識していきたいですね!

 

author : watanabe-yo
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スタンフォード大学 強姦事件 テキサス州テッド・ポー下院議員の米国議会でのスピーチ(全訳)

【2016.06.23 Thursday
00:49

スタンフォード大学強姦事件の関連文書の翻訳を続けてお送りしています。被害者の声明文の訴える力に多くのひとびとが心動かされ、加害者や加害者の父親の無責任で他人ばかりを責める言い分に、同様に多くのひとびとが憤りを覚えています。すべての強姦事件、すべての性犯罪は忌むべきもの。そしてこの事件においては、加害者が在学していたのと同じスタンフォード大学出身で、同じように運動選手だった(そして同じように白人男性の)ペスキー判事の、通常はありえない大幅な量刑減免(検察の求めた6年から僅か6か月、という9割の減免)が問題視されています。本日お届けするのは、テキサス州の共和党議員、テッド・ポー氏が米国議会で訴えたスピーチです。

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議長。二人のスタンフォード大学の学生がある晩、自転車を漕いでいると、ダンプスター[訳注:大きなゴミ容器]の後ろでぴくりとも動かない半裸の女性が横たわっており、男子学生がその上に跨っているのに気付きました。

暴行を加えている男に声をかけると、男は暗闇にまぎれて逃げ出しました。二人の善意の学生はこの卑怯者を捕まえ、地面に押し倒しました。僅か22歳の女性が強姦されており、その強姦犯人を捕まえたのです。被害者が意識を取り戻した時、彼女は病院の担架の上で、松の葉にまみれ、血を流していました。暴行犯人はブロック・ターナー、水泳の奨学生でした。ブロックは三訴因の性的暴行で有罪判決を受けました。量刑はしかし、僅か6ヶ月の禁錮と3年の保護観察。なぜなら、判事がこう言ったからです。「実刑判決は彼に厳しい影響を与えるだろう」

けれど、それこそが量刑の主眼ではありませんか?

議長、強姦罪の懲罰は、大学の一学期より長くあるべきです。

けれども加害者の父親は「たかが20分の行為には高い代償」だと言いました。明らかに、ブロックは親を見本として育ったわけで、この父親が「今年最高の父親賞」を受賞することは決してないでしょう。

議長、多くの被害者にとって、強姦は死よりも残酷なのです。なぜだと思いますか。強姦被害者たちは言います。強姦された後、心が何度も死ぬのだ、と。一方、殺人の場合、被害者が死ぬのは一度きりです。

量刑判決の後、この勇気ある被害者は、7,200語にわたる文書、彼女を暴行した犯人に宛てた文書を読み上げました。その抜粋をここで読みます。

「考えないようにしたけれど、それはあまりにも重くて、喋ることも、食べることも、眠ることもできませんでした。誰とも話しませんでした。わたしが最も愛しているみんなから離れて、ひとりぼっちになりました。わたしがどんな風に性的暴行を受けたのかという詳細の後で、その記事は彼の水泳記録について触れていました。『ちなみに彼は水泳の名手なんです』と。

 わたしは群の中の傷ついた一頭だったのです。ひとりぼっちで狙いやすく、自分の力で抗うこともできなかった。だから彼はわたしを選びました。

捜査のあいだ、削ぎすまし尖った質問が矢のようにわたしに降り注ぎ、私生活、恋愛、わたしのこれまでの履歴、家族のこと、それらを解剖し解体し、虚ろな問いが瑣末な詳細をほじくり出してこの男に言い訳を与えようとしました。わたしを半裸にした男に。わたしの名前さえ尋ねようとしなかった男に。

わたしの受けたダメージは内的で目に見えないもの。それをわたしは抱えています。あなたはわたしから価値を奪い、プライバシーを、力を、時間を、安全を、親密な関係を、自信を、声を、奪ったんです。あなた自身の評判が台無しだと心配しているそうですが、わたしは夜、ひとりで眠ることができません。5歳のこどもみたいに、電気を点けたままでないと眠れません。誰かに触られる夢、覚めることのできない夢を見るから。だから太陽が昇るまで待って光の中でやっと安心して眠れるんです。三カ月ものあいだ、朝の六時まで眠れませんでした。」

議長、私は30年以上、検事を、そして刑事法廷の判事を務めました。たくさんの強姦被害者に会い、そしてこうした暴力が時に彼女たちの人生を破壊することを知りました。

この事件の判事は、判断を誤りました。

いくつかの法廷には、良い奴らのしたことなら罪ではない、という古臭い考えがあります。この事件では、法廷も、加害者の父親も、加害者が花形水泳選手だからって免罪符を与えようとしました。

この判事は罷免されるべきです。強姦犯人はその夜に犯した蔑まれるべき行いの償いに、もっと長い実刑を受けるべきです。

この傲慢な被告人は、量刑に不満を持ち上訴したと聞いています。上訴審が上訴を認め、この忌むべき一審量刑を覆して、加害者が受けるべき罰を与えることを望みます。

議長。我々は国として、考え方を変えなければなりません。性的暴行は酷い、忌むべき犯罪なのだと人々が正しく認識するようにしなければなりません。

11人の孫を持つ祖父として、私は、孫娘たちが、こんな行い、こんな蛮行は一寸たりとも許さない社会で育つようにしたいと考えます。

「いや」と言ったら、答えは「否」なのです。

そして、意識を失っている女性は、合意をすることも、抵抗することもできません。

この尊敬に値する女性のような被害者たちに、社会は、そして司法制度は、彼女たちの味方なのだと知らせなければなりません。あまりにもしばしば、ブロック・ターナーのような性犯罪者たちを弁護し、守り、許すことに重きが置かれすぎています。特権意識や大学で花形運動選手であること、自分は正しいと思い込む考え方は、正義を導くものではありません。6ヶ月以内にブロック・ターナーは刑務所から出て、自分の人生に戻るでしょう。けれど被害者の人生は、もう元に戻らないかもしれません。この犯罪者は彼女に、精神的な傷と苦しみ、苦悩という無期懲役を突きつけたのです。

議長。強姦が起きるとき、犯罪者は、被害者の魂そのものを盗もうとしているのです。

正義の名のもと、この判事は罷免されねばなりません。加害者はもっと刑務所で罪を償うべきです。我々市民は、そして社会は、できる限りあらゆる方法で被害者を支え、助けなければなりません。

議長、なぜなら、強姦は決して被害者の「せい」ではないからです。それが、世の掟なのです。

元動画:http://trailblazersblog.dallasnews.com/2016/06/texas-rep-ted-poe-calls-for-ouster-of-california-judge-in-stanford-rape-case.html/

author : watanabe-yo
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ブロック・ターナーの父、ダン・ターナーの声明文全訳

【2016.06.21 Tuesday
09:53

ブロック・ターナーの父、ダン・A・ターナー氏が判事に宛てた刑の減免を求める手紙の全訳です。前回に引き続き、翻訳後に友人の中村美和氏(ツイッターアカウント、@MiwananaFFS)に訳文をチェックしていただき、精査しました。

ターナー氏の手紙に対し、ノース・カロライナ州在住の牧師、ジョン・パヴロヴィッツ氏が送った公開書簡「ブロック・ターナーの父親へ、もう一人の父親より」も掲載しています。どうぞ、合わせてお読みください。

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アーロン・ペスキー裁判官殿

   この手紙を、我が息子ブロックがどのような人間なのかお伝えするためにしたためています。まず申し上げたいのは、ブロックは2015年1月17日と18日に起こった出来事のせいで絶望に陥っているということです。時を戻してあの晩をもう一度やり直せるなら、どんなことだってするでしょう。あの日から何度もブロックと一対一で話しましたが、あの晩起こったこと、あの晩に関係しており影響を受けた人々全員が被った痛みと苦しみについて彼は本当に申し訳ないと感じています。あの晩の行為について、真実の後悔を示しているのです。あの事件以来ずっとブロックと同じ屋根の下で暮らしてきて、我が息子がどれだけの打撃を被ったか、直接申し上げたいと思います。けれどもその前に、彼の人となりを示す幾つかの思い出を共有させてください。

   ブロックは人なつこい性格で、どんな人に会ってもすぐ打ち解けます。相手が男だろうが女だろうが、人に好かれるのです。幼稚園から今に至るまでそうです。誰かに怒鳴ったり、誰かに偏見を持ったりするところを見たことがありません。その人そのものを受け入れるのです。とても優しくておとなしい性格で、誰にも好かれる笑顔の持ち主です。自分のしたことを自慢したり威張ったりするのも聞いたことがありません。自分の成功について話すよりも他の人の達成したことについて聞きたがる、極めて謙虚な人間なのです。ブロックには、私が他の人において見たことのない内的な強さがあります。水泳の競争で何年もやってこられたのもそのおかげでしょうし、過去15か月をなんとかやってこられたのもそれが主な理由です。

   ブロックはいつも、学問であろうとスポーツであろうと、あるいは友人関係や恋愛関係であろうと、常に極めて献身的な人間です。ブロックの学問への献身は小学校に遡ります。私のいちばん好きな思い出は、ブロックの毎週の綴り方テストを手伝っていたことです。こうしたテストで良い点を取るのはブロックにとってとても大切なことだったので、彼はすべてちゃんと覚えているように、前の日から言葉を暗記しはじめていました。テストでうまくやれるように、私に何度も質問を繰り返さねばなりませんでした。金曜日の朝、息子を学校に送っていくとき、息子は私にテスト前の最後のクイズをしてねとせがむのでした。そしてブロックはいつもそのテストではいい点を取ったことも、申し添えておきます。つまらない例に見えるかもしれませんが、これは彼がその後も学問の達成を重要視し続けた、初期の証拠と言えましょう。年齢を重ねて学年も上がるに従い、息子は非常に複雑な問題でも理解する能力を持っていましたので、私の手をそれほど必要としなくなりました。この自然な能力と、極めて強い倫理観は、息子をあらゆる面における学問的成功に導いたのです。

   ブロックはまた、野球、バスケットボール、水泳などの運動にも同様に秀でていました。私は息子が小・中学生のあいだ、彼の野球とバスケットボールのコーチであり、ボーイスカウトのリーダーでもありました。息子のコーチやリーダーとして参加し役に立つことは、息子との時間を共有することでもあったので、私には大きな誇りでした。私はまた父母代表付き添い役として何回も遠足に付き添いましたが、多くの場合父親として付き添ったのは私だけでした。ブロックがあまりにも一緒にいて楽しい子だったし、いつも他の子どもや親たち、先生たちに敬意を払っていたので、こうした一瞬一瞬が私には宝だったのです。この年月の記憶を私は永遠に愛し続けるでしょう。

   ブロックの高校2年の夏が終わるころ、息子は学問においても運動においても発揮していた才能を次のレベルに引き上げるべく、スタンフォード大学に応募しました。ブロックは水泳での成功記録と学校での成績のおかげで、第一部門の多くのコーチから注目されていたのです。彼の達成記録のおかげで、たくさんの大学コーチが息子に関心を寄せていました。けれどもスタンフォードこそブロックが目指していたものでしたし、こんなに長い間頑張ってきた人間にとっては最高の栄誉でした。ブロックと私は、彼が高校一年生から二年生に進級する夏にはじめてスタンフォードを訪れました。ブロックはそこで、USAジュニア・ナショナル戦というはじめての全国レベルの水泳競技会で競っていたのです。二人ともキャンパスの素晴らしさ、水泳施設、そして大学の豊かな歴史に感銘を受けました。その時、こんな学校に行けたら最高だとブロックに話したのを覚えています。スタンフォード出身のオリンピック水泳選手のことを考えただけでも信じられません。この最初のスタンフォード訪問は、ブロックに、深い印象を与えました。2013年の秋、ブロックがスタンフォードに入学許可されたと知った時、我が家族は誇りでいっぱいの気持ちでした。それまでにどれだけ努力してきたか知っていたので、最高の出来事でした。我々が最も誇りに思ったのは、ブロックが運動選手として奨学生になる前に、学問の成功を認められたことです。その年の合格率が4%だったことを考えると、これは特筆すべきことでした。ブロックは大学から60%の水泳奨学金をもらいました。このように寛大なオファーを頂いても、私と妻はブロックがスタンフォードに通うためには経済的に苦しくなるのを知っていましたが、スタンフォードでの教育の価値をよく知っていましたので、なんとかするつもりでした。ブロックの高校最後の年が終わるに連れ、息子は彼らしくスタンフォードに入学許可されたことについては謙虚で、高校最後の瞬間まで学問にも水泳にも力いっぱい打ち込んでいました。

   2014年の9月、カーリーンと私で新学年を迎えるブロックをスタンフォードに送った時、私たちは息子が新しい経験を積んでいく準備が完璧にできていると感じていました。何度も全国レベルの水泳キャンプに行っていたし、家から離れるのにも慣れていたからです。新入生の運動選手としてあの新学期にブロックがスタンフォードに移ることに、私たち両親もワクワクしていました。新学期には水泳チームの新入生の中、学問上トップの成績も収めました。私たちが気づいていなかったのは、ブロックが家からこんなにも離れて寂しがっていたことです。ブロックは学校と水泳の厳しさに馴染めるよう一所懸命でした。クリスマス休暇で帰ってきた時、ブロックは、みんなの中に馴染みたいと苦労していること、家から遠く離れて辛いと告白しました。水泳のトレーニング・キャンプで早めにクリスマス休暇を切り上げて戻らなければならなかったことで、息子は気落ちしていたようでした。冬学期にスタンフォードに戻ることが正しい選択なのかさえ疑問に思ったものです。振り返ってみると、ブロックが必死にスタンフォードの文化の一部になろうと努力し、飲酒とパーティーの文化に陥ってしまったのは明らかです。この文化は水泳チームの上級生がモデルとなり、2015年1月17日と18日に起こった出来事の要因となりました。スタンフォードにおけるブロックの短い経験を振り返ると、最適の状況ではなかったのです。学問的、また運動の面では準備が出来ていましたが、中西部で生まれ育った息子には、家から遠く離れすぎていたのです。家族や友達が近くにいるというサポートが必要だったのです。

   現在のところ、1月17日と18日に起こった出来事によってブロックの人生は大きく、そして永遠に変えられてしまいました。おおらかな性格と人好きのする笑顔の、楽天的な息子はもういないのです。起きている時間は心配と懸念、怯え、陰鬱な気分に沈んでいます。表情や歩き方、弱々しい声、食欲の減退からもそれは見てとれます。ブロックには好物があって、自分で料理するのも得意でした。私は息子がグリルできるようにリブアイ・ステーキを買ったり、息子の好きなおやつをあげたりするのが大好きでした。時には私の好きなプレッツェルやポテトチップスを隠しておかねばなりませんでした…ブロックが長い水泳の練習から帰ってきてそれを見つけると、すぐになくなってしまうからです。今、息子は食べものにもほとんど手をつけません。生きながらえるためだけに食べています。[有罪の]評決は息子と私たち家族をたくさんの方法で傷つけました。彼の人生はもう、長いこと夢に見、達成に向けて努力してきたものには二度とならないでしょう。20年余生きてきた中のたった20分の行為にしては、あまりにも大きな代償です。これから一生、性犯罪者として登録し続けなければならないことで、住む場所も、訪れるところも、仕事ができる場所も、人々や組織とのやりとりも制限されてしまいます。父親として私が知る限り、実刑判決はブロックにとって適切な刑ではありません。前科もありませんし、2015年1月17日も含め、誰かに暴力を振るったこともありません。ブロックにはいろいろな形で社会に貢献することができますし、息子は他の学生たちに、飲酒と性の奔放さの危険について警告できる素養が十分にあります。ブロックのような人間が大学キャンパスにおいて他の人を教育することができれば、飲み過ぎとその残念な結果という循環を断ち切る社会的貢献にもなるでしょう。この状況に鑑みると、ブロックには執行猶予が最適ですし、そうすることでポジティブな方法で彼が社会に復帰することもできます。

心からの敬意をこめて

ダン・A・ターナー

原文:

https://assets.documentcloud.org/documents/2852614/Letter-from-Brock-Turner-s-Father.pdf

**********************

ブロック・ターナーの父親へ、もう一人の父親より

ジョン・パヴロヴィッツ 

http://johnpavlovitz.com/2016/06/06/to-brock-turners-father-from-another-father/

ターナーさん

あなたがご子息ブロックのために、強姦罪有罪判決の減免を求めて書いた手紙を拝見しました。あなたに理解してほしいことがあります。あなたがあなたのご子息を愛するのと同じように、自分の息子を愛する父親として、申し上げます。

ブロックは、被害者ではありません。

被害者は、彼が被害を負わせたひとです。

傷つけられたのは、彼女です。

傷つけたのは、彼です。

もしも彼の人生が「大きく変えられた」のなら、それは、彼が他のひとの人生を「酷く変えた」からです。彼が自分の快楽のために、他のひとの弱みにつけこむという選択をしたからです。この若い女性は、あなたの子息が受けた恥ずかしくなるほど短い僅か6カ月の刑よりも、ずっとずっと長い時間、この事件の傷痕を背負って生きていくのです。彼の「20分の行為」のせいで、彼女は一生、考えられないような傷を負って生きていくのです。そして、あなたがこのことについてまったく気づいていないことそのものが、問題なのです。

だからこそ、若い男たちが女性を強姦し続けているのです。だからこそ、あまりにも多くの男たちが、女性の身体に対して、責任を負うことなしになんでもやりたい放題やっていいのだと思いこむのです。

だからこそ、性的暴力を被った被害者が、そのことについて公に問うことなく口をつぐむのです。

だからこそ、白人特権というものが実際にそして陰湿にはびこっており、特権を持つ者たちはそれに気づいてさえいないのです。

あなたが手紙の中で、ご子息をひとりの人間として描こうとしていること、彼のお気に入りのおやつや水泳の練習、そして父としてあなたが大切にしている思い出について判事に語りかけていることは理解できます。けれど正直言って、そんなこと、どうでもいいだろう、と思います。もし被害者があなたの娘だったら、あなたもそう思うでしょう。

この若い女性だってお気に入りのおやつやスポーツがあるでしょうし、ご両親も彼女のために素晴らしい人生を考えていたでしょう−—−こんな悪夢を含まない未来を。

あなたの息子が同情を受ける存在となる構図は、ここには存在しません。襲ったのは彼なのです。強姦したのは彼なのです。そうした現実がどれほど断腸の思いを呼ぶのか父親として私には想像できませんが、これが事実なのです。

ブロックが性犯罪者として登録しなければならないのは、彼が、抵抗能力を失った若い女性を性的に襲ったからです。だからこそ、こうした決まりがあるのです。たった一人の被害者に対する犯罪だって多すぎるからです。言葉にできないようなことをしてしまった時、やり直しは効かないからです。他のひとの持つ基本的な尊厳をこんなにも酷いやり方で踏みにじった人間が我々の社会に交じっている時、人々はそれを知ることで守られねばならないからです。

あなたの息子が事件以前にダンプスターの裏で他の女性を襲ったことはなかった、というのは、彼の信用を高める材料にはなりません。一生にたった一人しか強姦しなかったから誉められる、なんてことはないのです。あなたの息子をモンスターとは私は思いませんが、彼はモンスターのごとく振る舞ったことについては責任を負わなければなりません。確かに、この判決はブロックの人生すべてではありませんが、全体の諸要素の一つであり、大切なことなのです。

ターナーさん、はっきり申し上げておきますが、ここで問題なのは「飲酒と性の奔放さ」ではありません。ここで問題なのは、若い男性には選択肢があり、これらの選択肢が彼らを定義するということ−−−たとえそれが、誘惑と機会でいっぱいの状況で選ばれた選択肢だったとしても。事実、そのような状況下でこそ最も雄弁に、我々の人間性が顕れてくるのです。容易に掴みとることのできる悪に手をのばさず、品位と常識的な慎みを選ぶことによって。

我々親というものは、こどもたちを管理することはできません。ほとんどの親は、これを理解しています。そうさせまいと我々がどんなに努力しても、彼らは過ちを犯したり、我々が決して許さなかったことをしたりするのです。この状況もそうであったと思いたいのですが、あなたの書かれた手紙からはそれさえ伝わってきません。まるであなたは、ご子息の犯した犯罪の被害者に対してよりも、あなたのご子息の方に同情を集めたいように見えます。そしてそれは、被害者には、またこの事件を見ている若き男性や女性には、十分ではないのです。

彼女の話は、ここにあります。

あなたはご子息を愛しておられ、それは当然のことです。けれども、彼が酷い過ちを犯したことを教え、法の定めに従い社会に対し借りを返さねばならないと教えられるほどの強さをもって、愛してあげてください。彼が達成するとあなたが言う素晴らしい仕事をして償いの道を歩むのは、その後です。

いまはただ、一人の父親からもう一人の父親へ、申し上げます。我々がもっと良き道を歩むことを見せましょう。そうすることで、こどもたちにも良き道を示そうではありませんか。

 

author : watanabe-yo
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スタンフォード大学 強姦事件加害者ブロック・ターナーの声明文(全訳)

【2016.06.19 Sunday
14:38

前回は、スタンフォード大学強姦事件被害者の声明文全訳をお届けしました。今回は、加害者であり有罪判決を受けたブロック・ターナーの声明文の全訳をお届けします。ブロックの声明の下に、目撃者の証言やスタンフォード大学水泳チーム女子学生たちから寄せられた情報も付記しますので、これらも含めて読んでいただければ幸いです。

わたしは、ブロックが「怪物」とは思いません。連続殺人鬼などと比べれば、「単なるアホな若者」かもしれません。ただ、彼の行為が被害者の人生を醜く変えてしまったことは事実。事件前後、特に事件前の様子については記事末の1〜6の点をお読みください。この後、ブロックの父の声明なども掲載しますが、これら一連のそれぞれの言葉を通して考えたいのは、社会の構図として何が起こってきたのか、それがなぜおかしいのか、どうしたら変えていけるのか、ということです。

(注:下記、ブロックの文章は、稚拙なだけでなく、段落分けもきちんとされておらず、読みづらいです。ただ、そこを翻訳過程で読みやすく「良い」文章にするよりも、彼が書いた英語の文章をなるべくそのままお伝えしようと思いました。その方が、関係者全員にとって「フェア」であるという判断です)

*******************

[スタンフォード大学強姦事件加害者ブロック・ターナーによる、サンタ・クララ郡刑事法廷のアーロン・ペスキー判事に宛てた声明文]

  2015年1月17日は、朝起きて、水泳の練習に行って…と、学校でのいつもの日と変わりなく始まりました。過去4ヶ月、水泳チームの仲間とキャンパスで暮らしてきて、その日も仲間たちと過ごすつもりでした。オハイオ州の小さな町で育った僕は、飲酒が伴うお祝いやパーティーは実のところ未経験でした。でもカリフォルニアの大学に入って、土曜日に友だちと過ごすのはそういうものなんだと思うようになりました。学校や水泳でのストレスを発散するには、いろんな人と酒を飲むものなんだと思うようになったのです。たとえばある土曜日には、水泳チームで最近親しくなった友だちと地元のフットボールの試合を観に出かけました。自分の人生の最高の時期を、歩きながらビールを飲んで友だちと試合を観に行くなんて、最高だと思いました。友だちと歩きながらビールを飲むなんてかっこいいと思ったんです。でもその日は、飲料アルコール所持で軽犯罪の切符を切られました。残念ながらその時のことはただの間違いだと思って気にしませんでした。飲酒と、それを可能にする環境にいることについて、自分の振る舞いを変えることとはとらえませんでした。毎日お酒を飲む習慣のある人たちと過ごしてきて、それは大学に通うこと、大学生であることに不可欠な要素だと思ったのです。犯罪に問われたものの、それは僕が飲酒を続ける妨げとはなりませんでした。なぜなら、僕は不注意にも飲酒は大学生であることの必須条件だと思ってしまい、たかが一回の事件によって自分が大学にいることの意味を変えるべきじゃない、と考えたのです。そうやって大学のライフスタイルについて発見しているあいだも、何度も、酒の絡んだパーティーで人々が親密になっている様子を目撃する機会がありました。水泳チームの社交パーティーで、こういうことが受け入れられているだけでなく、新入生にはむしろ勧められている様子を目にしました。学校に通う2か月ほどの間に、こういうことを受け入れ始め、飲酒を伴うパーティーで異性と出会うのは普通のことだと思うようになりました。水泳チームではパーティーや飲酒に制限を設けていませんでしたし、その状況を最大限に楽しむ男たちを見ていましたし、同じように振る舞うよう見せつけられました。尊敬している先輩たちがパーティーに行って、女の子と会って、会ったばかりの女の子を連れ帰るのを見ていました。自分が敬意を抱いている先輩たちが酔っ払って女の子と踊るのを見ましたし、そういうパーティーに参加しろと誘われました。飲酒とかパーティーとかには初心者でしたから、それが普通なんだと言われたのでそう受け止めていました。家から二千マイルも離れて暮らしていたので、水泳チームの先輩たちを家族のように見ていましたし、彼らの大学生活や価値観を真似しようとしていました。

そんなわけで1月17日、当時水泳チームの一年生だった友だちがそいつの寮の部屋でパーティーをするのを楽しみにしていたのです。もし時間を遡ることができてあの1月17日の夜に起こったことを変えられるのならすぐにでもそうしたいです。誰も傷つけるつもりはなかったんです。あのパーティーには同じ水泳選手の友だちふたりと行きました。着いてからはビールの形で[訳注:原文通りに訳しました]飲酒をし始め、パーティーに来ていた人たちと社交しました。彼の部屋でビールを5本飲んだと思います。それから、すでに飲んでいたビールに加えて2杯のファイアーボール[訳注:シナモン風味のウイスキー]を飲みました。自分はそこにいた水泳チームの一人だからと思って、安心して、安全だと思っていました。自分の新しい「家族」の中で、こうした酒の飲み方はまったく普通なものとして受容されていると思ったんです。その後11時ごろ、騒音規則に反するからとRA[訳注:レジデント・アシスタントの略。寮を監督する学生リーダー]に言われ、一年生のパーティーは11時ごろお開きになりました。その時は友人のトム・クリーマーと他に8人くらいの人と一緒にいました。グループの中で一年生ではなかった人たちが、他のパーティーに行こうとしていました。大学に通った短い時間の中で知ったのですが、みんなはふつう、小さいパーティーの後、夜が更けてくるとフラタニティ[訳注:男子学生の社交グループ]のパーティーに行こうとするのです。1月17日も例外ではありませんでした。友だちが寮の部屋でやっていたパーティーから始まった小さなグループと一緒に行動していた時、誰かがカッパ・アルファ[訳注:選ばれた学生だけが属することのできる特権的学生グループ]がパーティーをやっているから行こうぜと言い出したのです。グループが最終的にどこに行くかについては、僕自身は特に意見を持っていませんでした。2、3分の間にグループの中の多数がカッパ・アルファのパーティーに行くことにしたので、僕はついて行きました。その家の裏口からパーティー会場に入りました。パティオのドアから地下室に行くと水泳チームのキャプテンが飲み比べゲームをしているのが見えました。キャプテンはもう一人チームの先輩と話していたので僕は話しかけました。ただ地下室で尊敬しているチームの男たちとパーティーを楽しんでいたんです。そしたら誰かが地下の電灯を消したので飲み比べゲームをやめて、それまでゲームをやっていたテーブルの上に乗って踊りはじめました。キャプテンと一緒にいたのでキャプテンは僕にもっと楽しめと言いました。そこでそのアドバイスを受けて、僕はテーブルの上に乗って踊りはじめました。そのうち僕は、同じテーブルの上で踊っていた女の子と一緒に踊りはじめました。一緒にグラインドしました。つまり、僕は彼女の後ろに立って、腰を密着させて、音楽のビートに合わせて左右に振るのです。2、3曲踊ったあと、僕はテーブルから降り、涼しい風に当たるのと、パティオのあたりでパーティーがどうなっているのか見るために、外に出ました。外に出ると一緒にパーティーにやってきた友人のトムと、水泳チームの友だちが話しているのが見えました。僕は彼らのところに行って話しはじめました。しばらくして、トムが地面にビールのケースがあるのを見つけて僕に指さしました。トムはそれから僕にビールを手渡したので僕はそれを飲みはじめると、トムとジェフ、それからもうひとり一緒にいた友だちがビールでショットガン[訳注:缶の下に穴を開けて行う一気飲み。液体が急速に口に注ぎ込むため気管に入る危険性が高い]をする準備をしていました。その前に僕たちのそばにふたりの女の子たちがいて、トムは彼女たちに、ショットガンする前にビール欲しいかと尋ねました。彼女たちはふたりともビールを受け取って僕たち3人の輪に加わりました。トムとジェフ、ふたりの女の子たちはみんなショットガンをはじめ、またはのみはじめましたが、僕はショットガンをするつもりはなかったので少しずつ飲んでいました。しばらくして、僕はトムがビールを手渡した女の子のひとりとトムに話しはじめました。つまり基本的に自己紹介をしていて、僕たちはこのキャンパスの学生で水泳チームなんだってことです。彼女はカリフォルニア工科大学に行ったと説明していたので、トムはきょうだいがその学校にいると話していました。彼女が僕のそばに来て、彼女が通っていた学校の友だちに僕が似ているのでびっくりした、と言ったので、僕は彼女も僕も楽しんでいるなと思いました。僕といちゃつきたいってことだと思ったので、もう少し話をしたあと彼女にキスをしました。キスは5秒くらいで、互いの歯が当たったので互いに離れました。歯が当たったのでふたりとも笑い、なんだか恥ずかしくなって顔が赤くなったのを覚えています。彼女は彼女の友だちとどこかに行ってしまい僕は中のパーティーに戻って誰か知っているひとを探しに行きました。しばらくただ中のパーティーでぶらぶらして電話をいじった後、トムと僕がしゃべったりビールを飲んだりしていた時にいたもうひとりの女の子を見つけました。その子のそばに行って踊り方がいいねと言いました。さっき少し話をしたと思ったので、その子と話しはじめました。僕は彼女に踊りたいかと尋ね、僕たちは一緒に踊りはじめてそのうちキスしはじめました。一緒に寮の部屋に来るかと誘ったら彼女は一緒に来ると言いました。僕の寮に向かう道を歩きはじめました。この時、僕たちは向かっている小道の方向へ坂を下りていました。気がついたらふたりとも地面に寝そべっていました。たぶん彼女が足場を踏みちがえて坂を転がり落ち、僕も一緒に落ちたんだと思います。僕たちは笑いはじめ、僕は自分は不器用だなと思いました。彼女に大丈夫かと尋ねると大丈夫と思うと言いました。そのあとまた転んだ地面でキスをしはじめました。そうなってくると寮の部屋に戻ることは忘れてしまいました。[被害者]とうまくいっていると思い、何も悪いことなんて起こりえない、誰も自分がやっていることを悪いなんて思うはずがないという現実の中にただいました。自分と[被害者]がいまどこにいるのかとかどこにいるべきとかは考えませんでした。単純に自分の部屋以外の場所で誰かと親密になることも起こり得るのだと思ったのです。それらの要素を否定して、性的行為をすることについて尋ねました。転んだところで僕たちはそのままいちゃついていたので、僕は馬鹿みたいに、その場で熱い状況になっていたので一歩進めてもいいと考えました。彼女にキスしていましたが身体を離して指でやって欲しいか聞いたのです。彼女は応え、「ええ」と僕が言ったことに答えました。返事を聞いたので、指でやっていいということになったのでそれを達成するには下着を脱がせるしかないと思い、彼女の下着を脱がせようと決心しました。その後に彼女にキスをして指を入れて、彼女がうめいて僕の背中に腕を回し掴まったのでその性行為に満足したんだなと思うまで指でやりました。気持ちいいか聞くと彼女は肯定的な返事をしました。指でやるのをやめて僕の腰を、彼女が腰を突き上げるのに対して動かしはじめ、その間、彼女の首と耳にキスしていました。僕たちが何をしているのか[被害者]がわからないほどによっていたなんて一度も思いませんでしたし、そう見えませんでした。誰かの意思に反した行為なんて僕はしません。

彼女と一緒にこうやってしばらく動いていたあと、飲んでいたビールと酒が胃に来て、吐き気がし、視界がぐるぐる回り始めました。胃が変だったので吐くかもしれないと言ったら彼女は僕がそんなふうに感じていた事実に驚いたかのように「オー、オーケイ」と言いました。地面に彼女と寝転がっている体勢から四つん這いになりました。バランスがうまく保てなかったからです。そのうちに立ち上がって、吐くのにちょうどいい場所を探して坂を下りました。その時誰かが僕の方に向かってきて僕の注意を引こうとしていたのに気付きました。[被害者]と僕がいた坂から離れて吐くための場所を探し続けました。歩いていたら、僕の注意を引こうとしていた人がもっと近くに来ました。その人は何か外国語で別の人と話していました。僕にわかったのは、その人が僕に「ヘイ」「なんてことだ」と話しかけていたことです。相手が僕に対してなんの心配をしていたのか知りませんが、それをなだめるためにどう答えたらいいか考えつく前に相手に腕を掴まれていました。なので、どうしてなのかわけもわからないけれど僕と戦おうとしているのか何か文句をつけようとしていると思いました。恐怖が身体を突き抜けて、一生懸命相手に抗いました。彼の手をほどいて走り去ろうとしましたが、彼に地面に押し付けられて腕を押さえられ起きられませんでした。十回か十五回くらい助けてくれと叫びましたがだれも助けに来ないので叫んでもむだだと思いました。何度も相手に何が問題なのか言わせようとしましたが相手は言うのを拒みました。地面に押さえつけられている間、誰かが警察を呼ぶのが聞こえました。警察が来るなら良かった、僕を助けてくれるだろうと思いました。警察が着いたので起き上がりましたが、また地面に伏せて両手を後ろに回すように言われました。自分が逮捕されるのだと知って衝撃を受けました。誓って言いますが、[被害者]の意思に反していたらこんなこと絶対にしなかったでしょう。今までそんなことしたこともないし今だってしません。

僕は警察署に連れて行かれ、木のベンチのある部屋に入れられました。トイレを使ってはいけないし何も食べたり飲んだりしてはいけない、ただ木のベンチで眠るよう言われました。警察官は誰も僕に何が起こっているのか教えてくれませんでした。そのうち誰かが入ってきて僕の服を脱がせ、どうしてかわかりませんが僕の体に綿棒をこすりつけました。強姦容疑だと言われて僕はすぐに信じられないというショックを表しました。起きてすぐそんなこと言われたら驚くだろうなと彼も答えたので、僕は冗談だろと思いました。そしたら彼は誰かが来て尋問するからと言いました。そのうちその人が来て、尋問のあいだ僕が考えることができたのは誰も強姦してないしそんなこと考えたこともないということでした。あの夜に何があったのか毎分ごとに詳細に思い出すよう努められればよかったと思います。[被害者]から逃げ出そうとしたのではなくて、ただやるかやられるかという反応だったとしてもあの男が強かったから逃げたのだと言えばよかったと思います。自分が言わなかったことがこんなに大問題になるとは思いませんでした。だって僕は自分が誰も強姦してないと知っているしそれだけが問題なのですから。ただ真実を言えばいいだけだと思いました。つまり、誰も強姦しようとなんてしていなかったし、誰も傷つけようなんて思っていなかったし、誰の弱みにつけ込むつもりもありませんでした。でも尋問の後で警察官は僕を留置場に入れる相当な理由がある、だから留置場行きだと言いました。僕は信じられずに完全にショックを受けていました。自分の家族のことだけを考え、どうやったら連絡が取れるだろうと思いました。

1月17日の夜は僕の人生と、関係のある人たちの人生を永遠に変えてしまいました。その前の日の自分にはもう戻れません。僕はもう水泳選手ではないし、学生でも、カリフォルニアの住民でも、人生の19年間に自分で設定したゴールを達成するための努力のたまものでもありません。自分の人生を変えただけでなく、[被害者]とその家族の人生も変えてしまいました。これらの人々の人生を変えてしまったのは僕のせいなのです。あの夜に起こったことを変えられるならどんなことだってします。[被害者]にトラウマと痛みを与えたこと、僕は自分を許すことができません。僕の行為が、正当な理由もなくアンフェアな心と身体のストレスを彼女に与えてしまったと考えると実にげんなりします。このことが起こってから毎日毎秒このことについて考えています。それが頭を離れることはありません。日中は何が起こったか考えることで自分を責めるあまり抑えようがなく震えてしまいます。時間を遡りしてあの夜、酒なんか飲まず、[被害者]と話なんかしなければよかったと願っています。誰と話しても、これらのことを考えずにはいられません。僕は苦しめられています。毎晩これらの考えに疲れ果ててボロボロになって眠りにつきます。自分が起こしたこれらのひどいことを夢にうなされ、目を覚まします。自分の判断力の甘さとちゃんと考えずに起こした行為に、苛まれています。1月17と18日に自分が起こしたことを後悔しない日はありません。自分の人間としての殻も芯もこのことで永遠に壊れてしまいました。僕はもう別の人間になってしまいました。今この時点で、僕はもう二度と酒を一滴も飲みたくありません。飲酒を伴う社交にも出たくないし、摂取した物質に基づいて行動を決定するような場所には行きたくありません。自分の人生や他のひとの人生にネガティブな影響を与えるような立場に身を置くようなことは二度を経験したくありません。この事件の報道だけで二つ仕事を失いました。水泳なんか得意じゃなければよかったし、スタンフォードに入学する機会もなければよかった。そうすれば新聞は僕のことを書き立てなかったでしょう。

これらの出来事の後、前に進むためにできるのは、みんなに、僕が本当はどんな人間なのか証明することです。もしも執行猶予にしてもらえたら、残りの人生ずっと僕は社会のためになれるでしょう。自分のできる方法で大学の学位も取りたいです。それをするには、自分を見本として示すことで、周囲のひとたちや社会をより良くすることができます。水泳をはじめた時から、僕は目標達成型の人間でした。このことが起こる前の自分から学べるものを、今後のために自分にできる限り使いたいと思います。僕みたいなひとに、もしそのひとが僕がしたような決定を下すなら、結果をよく考えずに大学生活がどんなものか信じ込むことの危険について示すことができます。酒を飲み、飲んでいる時にまずい判断を下すと人生が終わりになることを示したいのです。同級生からのプレッシャーや、溶け込まなきゃと思うことが、人にどんな影響を与えるか知るべきです。自分の決定で、自分の人生がすっかり変わってしまうことだってあるのです。みんなが大学生という存在の芯にあると思っていることにおいて突出している大酒飲みや性の奔放さという文化について、人々の態度を変えることが、僕にはできます。大学生活というものは酒を飲んだりパーティーをすることだ、という仮定を突き崩したいのです。僕は間違いを犯しました。酒を飲みすぎて、僕の判断で誰かを傷つけました。でも意図的に[被害者]を傷つけたのではないのです。判断を誤ったことと飲みすぎたことで、あの日誰かを傷つけました。それを全て帳消しにできたらと願っています。

もしも執行猶予にしていただけたら、自信を持って、疑いもなく言いますが、警察と関わる問題は絶対に犯しません。このことが起きる前、僕は警察と問題を起こしたことなんかなかったし、それを続けるつもりです。大学の4ヶ月で経験したパーティー文化と冒険を好む行動のせいで僕はボロボロにされました。オリンピックで泳ぐチャンスも失いました。スタンフォードの学位を取る機会も失いました。雇用機会も、評判も、そして何より自分の人生を失いました。こういうことから、僕は、もう二度と何かを犠牲にしなければならない立場にはなりたくありません。こうやって起こったことから、僕は社会に貢献しポジティブな影響を与えらえるのだとみんなに見せることを生涯の使命にしようと思います。お前は本当に社会のためになれるのかなんて誰かに聞かれるような状況には二度と陥りたくありません。男だろうが女だろうが、酒の影響下でバカな判断を下すようなことがあってはなりません。パーティーとか酒を飲むことについてみんなの考えや態度がもう決まっているこの世界で、僕は理性の声になりたいのです。若者たちに知らせたいのです。僕が知らなかったことを。たった一晩で、楽しかったことがすべて崩れることもあるということを。

********************

以下は、追加事項です。概要は、

  1. スタンフォード水泳チームの女子学生たちの間でブロックは危険視されていた
  2. 目撃者の証言はブロックの言い分と矛盾する
  3. 被害者の合意があったかどうかにも疑問がある
  4. ブロックはパーティーの間も女性たちを追いかけ回し、無意識の被害者の裸の写真を撮っていた
  5. ブロックには軽犯罪だが犯罪歴もあり、またドラッグ使用は高校時代に遡る
  6. 量刑の減免は、女子学生たちをさらなる危険に陥れる

1. スタンフォード水泳チーム女子学生たちはブロックの奇妙な行動を危険視していた

スタンフォード水泳チームの女子学生が語ったところによると、チームの女子たちはブロックの入学以来、彼を危険視していた。「逮捕されても驚きませんでした。最初から、私たち女子学生はブロックのことをすごく変な奴だと知っていたのです。例えば女性に対して『その水着の下のおっぱいが見えるよ』なんて言ったり」とチームの一人は語っている。またチームの花形女子選手はブロックがパーティーで酔っ払うのを見た後、ブロックとは絶対に二人きりにならない、と誓っていた。「上級生からパーティーを少し控えろと注意を受けましたが、彼は聞き入れませんでした」

スタンフォード水泳チームの女子たちは判事に対して彼女たちがブロックから受けたネガティブな体験について証言しようとしたが、大学から止められたと言う。大学側は選手たちにそう指示したことを否定しているが、水泳チームの選手は言う。「ブロック・ターナーのことを公に、また報道陣に対して喋るなと言われました。でも私たちチームは被害者を完全に応援しているし、ブロックがもっと厳しい罰を受けるべきだったと思います」

出典: Stanford Women Swim Team Suspicious of Brock Turner for a Long Time (Exclusive) , In Touch Weekly, June 15, 2016, http://www.intouchweekly.com/posts/brock-turner-stanford-women-s-swim-team-105204

2. 目撃者の証言とブロックの言い訳との矛盾

自転車で現場を通りがかった二人のスウェーデン人留学生が、意識を失った女性にまたがって激しく腰を動かしているブロックを目撃した。はじめは同意の上でのセックスかと思ったが、女性がまったく動いていないのに気付きブロックに声をかけた。

「声をかけるとそいつは立ち上がり、走って逃げ出したんです。ピーターが追跡し、僕は女性が息をしているのを確認して後を追いました。二人がかりで取り押さえ、警察が来るのを待ちました。女性は目を閉じて顔を横に向け、まったく動いていませんでした」

ブロックが酔っていたように見えるかと聞かれ、証人は答えた。「見えませんでした。走れたんですよ。それで判るでしょう。発音もまったく明瞭に喋っていました」

出典:Stanford Rape - Brock Turner Witness Speaks Out, the Guardian, June 8, 2016, https://www.theguardian.com/us-news/video/2016/jun/08/stanford-rape-brock-turner-witness-speaks-out-video; Court Papers Give Insight Into Stanford Sex Assault, the New York Times, June 12, 2016 http://www.nytimes.com/2016/06/13/us/brock-turner-stanford-rape.html?_r=0; Stanford Rape Case Witness Says Brock Turner Did Not Seem Drunk: 'He Could Speak Without Slurring,' US Magazine, June 10, 2016, http://www.usmagazine.com/celebrity-news/news/stanford-rape-case-witness-says-brock-turner-did-not-seem-drunk-w209682

3. 「同意があった」というブロックの主張と被害者の記憶との矛盾

目撃者たちが見た時、ブロックは意識があり、走ることが出来、言葉も明瞭だったが、被害者は完全に意識を失っており動いてもいなかった。被害者によれば最後に覚えているのはパーティーで妹といたこと。その次の記憶は、意識が朦朧とし混乱しながら病院で目覚めたこと、と話している。被害者が完全に意識を失っていたことは、駆けつけた救急隊員がなんども彼女の目を覚まそうと話しかけたり刺激を与えても無反応だったことにも裏付けられている。

出典:Court Papers Give Insight Into Stanford Sex Assault, the New York Times, June 12, 2016 http://www.nytimes.com/2016/06/13/us/brock-turner-stanford-rape.html?_r=0

4. パーティーの間も女性を追いかけまわし、強姦中には無意識の被害者の裸体の写真を仲間に送っていた疑いがある

捜査に基づく検察の量刑提案文書によれば、ブロックはパーティーの間も被害者の妹に突然キスしたり(二度、キスを迫っている)、親しくはない女性の背後で踊ろうとしつこく迫ったり(女性は拒否し、逃げた)腿を触ったりしていた。ブロックや仲間の携帯電話メッセージには「それ、誰のおっぱいだよ?」というメッセージが入っており、ブロックが強姦中に無意識の被害者の裸体写真を仲間に送りつけていたと見られる。写真は携帯電話が押収される前に誰かが削除していた。

出典:https://assets.documentcloud.org/documents/2859059/SentencingMemo.pdf

5. 少なくとも高校在学時から違法薬物を使用していた証拠

捜査の過程で押収されたブロックの携帯電話には、彼がまだオハイオの高校生であった2014年1月に遡り、パイプやマリファナ喫煙用の「ボング」と呼ばれる喫煙具の写真、また「Dabs」を購入したいというブロックのメッセージなどが入っていた。Dabsとは強く濃縮したマリファナで、はちみつかバターのような形状をしている。また他のグループメッセージでは仲間と金を出し合ってマリファナを購入する相談や、LSD(幻覚剤)、MDMA(エクスタシーとも俗称される、幻覚と興奮を伴う強い薬物)についての言及が多数見られた。

ブロックは声明の中で、以前未成年の飲酒で捕まったことについて触れているが、警察の記録によれば当時、警官から止まれとの指示があったにも関わらずブロックは逃げ続け、意識的に逮捕を免れようとしていた。

6. 量刑の減免はキャンパスをもっと危険にする

スタンフォード大学ロースクール教授であり被害者の家族とも友人であるミシェル・ドーバー教授は、ペスキー判事による量刑の減免はキャンパスの女子学生たちを危険にさらす、と警告する。「この量刑によってスタンフォードの女性たちは以前よりもっと危険な目に遭います。なぜなら、この量刑判決は基本的にこう言っているのです。もしあなたが同じような目に遭っても-−—つまり、スタンフォードの運動選手に強姦されても、法はあなたの味方ではありませんよ、と」

出典(5,6):Stanford Rape - Brock Turner Witness Speaks Out, the Guardian, June 8, 2016, https://www.theguardian.com/us-news/video/2016/jun/08/stanford-rape-brock-turner-witness-speaks-out-video

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スタンフォード大学 強姦事件被害者の声明文(全訳)

【2016.06.13 Monday
07:54

今回は、いつもと少し違う投稿です。わたしのTweetをご覧になっている方はご存知かもしれませんが、2015年に起こったスタンフォード大学キャンパス内における性暴力と、裁判を行なったサンタクララ郡裁判所の量刑判決について、現在米国では大きな論議が巻き起こっています。

今回は、以下ざっと事件の概要を記すとともに、量刑判決で被害者自身が読み上げた声明文を全訳し掲載します。
(この後、加害者であるブロック・ターナーの声明文、加害者の父親の声明文、それに答える市民からの声明文、また米国副大統領バイデン氏の被害者を支援する公開書簡なども翻訳したいと思っています。)

**********

事件の概要
2015年1月:被害者、妹と一緒にスタンフォード大学のフラタニティ・パーティー(男子学生の社交クラブが主宰するパーティー)に行った後、酩酊し意識を失った状態で加害者のブロック・ターナーに強姦されていたところを目撃される。

2016年3月:サンタクララ郡法廷にて、陪審員12人(男性8人、女性4人)全員一致で、ブロック・ターナーは性暴力三訴因すべてに「有罪」と評決。この罪状は、最低2年、最高14年(通常は4〜8年)の実刑判決、つまり刑務所での禁錮を伴う。しかし当該法廷のアーロン・ペスキー判事は、花形水泳選手であるターナの「将来に影響を及ぼす」として、わずか6か月、しかも郡留置場の禁錮という大幅な減免量刑を言い渡した。

以下の声明文は、この量刑判決にて、被害者自らがターナーに向けて、また法廷に向けて読み上げたものである。

**********

裁判官様、

 もし出来るのなら、この声明の大部分において、被告に直接話しかけたいのです。

 あなたはわたしを知りません。でもあなたはわたしの中に入った。わたしたちが今日、ここにいるのは、それが理由です。
 2015年の1月17日、我が家では静かな夜でした。父が夕食を作ってくれ、週末に家に帰ってきていた妹と一緒に食卓につきました。わたしは毎日仕事をしていたから、そろそろ就寝の時間でした。一人で家に居ようと思っていました。妹が友達とパーティーに行く間、家でテレビを見たり読書をしたりして。でも妹と過ごすのは久しぶりだし、他にすることもないから、家から10分の所でやっているパーティーにでも行ってみようかなと思ったのです。馬鹿みたいに踊って、妹を恥ずかしがらせちゃおう、と。大学生のコドモたちは歯科矯正具をつけてるかもね、なんて冗談を言いながら向かいました。妹は、フラタニティ[男子学生の社交クラブ]のパーティーに行くのに図書館の司書みたいな格好だと、わたしのベージュのカーディガンを笑いました。そのパーティーではわたしはきっと一番の年長と分かっていたから、わたしは自分のことを「お母さん」と言って笑いを誘いました。変な顔をしておどけたり、安心しきって、強いお酒を早く飲みすぎたんです。大学以来、あまりお酒が飲めなくなっていたことも忘れて。

次に気づいたとき、わたしはどこかの廊下の担架に寝かされていました。手の甲と肘には乾いた血と絆創膏。きっと転んでしまい、キャンパスの看護室にいるのだと思いました。とても冷静な気持ちで、妹はどこだろうと考えました。郡の副検事が来て、あなたは襲われたのだと言いました。わたしはまだ冷静な気持ちで、間違った相手にお話しされているのでは、と言いました。あのパーティーでは、誰も知っている人はいませんでしたから。やっと洗面所に行くことが許され、病院でもらったズボンを下ろし、次に下着を下ろそうとしたとき、そこには何もありませんでした。今でも覚えています。この手が自分の肌をかすめて、あるはずのものが、そこになかったのです。見下ろしてみました。何もなかった。そこにあるはずの薄い布地、わたしの性器を外の世界から隔て守るものは無くなっていて、わたしの中のすべてがその時、沈黙に沈みました。あの気持ちを表現する言葉は、今もわたしには見つかりません。

息をし続けるために、わたしは考えました。警察が証拠を押さえるために鋏で切ったのだろう、と。その時、松の葉が首を引っかいて落ちるのを感じて、わたしは松葉を髪から取り除き始めました。樹の枝から松葉が頭に落ちてきたのだなと思いました。頭が、身体に叫んでいました。倒れちゃいけない、と。身体が叫んでいたからです。たすけて、たすけて、と。

部屋から部屋へと、松葉を落としながら、毛布にくるまって歩きました。どの部屋にも、わたしのいたところに、小さな松葉の山を残して。「強姦被害者」と書かれた書類にサインするよう言われ、何かが本当に起きたのだ、と思いました。わたしの服は没収されていて、裸で突っ立っている中、看護師たちは定規でわたしの身体のあちこちの擦り傷を測り、写真を撮りました。看護師二人と三人で髪から松葉を梳きとって、ひとつの紙袋は六つの手が集めた松葉でいっぱいになりました。わたしを落ち着かせるために、彼らは言いました。これはただの植物・動物の類、植物・動物の類なのだと。わたしの膣と肛門には何本もの綿棒が差し込まれ、注射をされ、薬を飲まされ、足を広げられて写真を撮られました。長い尖った嘴のようなものを突っ込まれ、わたしの膣は冷たくて青い塗料を塗られました。傷を調べるためです。

こんな数時間の後、シャワーを浴びていいと言われました。流れ落ちる水の下で立ち尽くし、自分の体を調べながら、決心しました。こんな身体はもういらない、と。自分の身体が怖かった。何が入っていたのかもわからない。汚されたのか、誰が触ったのか。上着を脱ぐみたいに身体を脱ぎ捨てて、病院やすべてのものと一緒に置き去りたかった。

その朝は、ただこう聞かされました。わたしはダンプスター[訳注:大型ゴミ容器]の後ろで発見されたのだと。誰か知らない人に強姦された可能性があるのだと。HIVの再テストを受けた方がいい、なぜなら結果はすぐには判らないから、と。でも今はとにかく家に帰って、いつもの生活に戻りなさいと。それらの情報しか与えられず、世界に戻っていく気持ちが想像できますか。看護師たちはぎゅっと抱きしめてくれ、わたしは病院を出て駐車場に歩いて行きました。病院でもらったスエットの上下を身に付けて。わたしの持ち物は、ネックレスと靴しか返してもらえなかったから。

妹が迎えに来ていました。涙と苦しみでぐしょぐしょに歪んだ顔で。本能的に、すぐに、彼女の心の痛みを取り除きたいと思いました。妹に笑いかけて、言いました。見て、わたしはここよ、わたしは大丈夫、すべて大丈夫、わたしはここにいるわ。髪は洗ったからきれいよ、病院のシャンプーは変なシャンプーだったけど、落ち着いて、わたしを見て。見て、このおかしなスエットパンツとスエットシャツ。体育教師みたいでしょ、さあ家に帰って何か食べましょう。

妹は知りませんでした。スエットスーツの中は擦り傷と絆創膏だらけ、わたしの性器はヒリヒリと痛くて、あれこれ突っ込まれたせいで奇妙な暗い色に変わり、下着はどこかに行ってしまったこと、しゃべり続けるには、わたしはあまりにも空っぽになっていたことを。恐怖に怯えていたことを。ぼろぼろになっていたことを。その日、家に帰って、妹は何時間もわたしを抱きしめていました。

わたしのボーイフレンドは何が起こったのか知りませんでしたが、その日に電話をかけてきて言いました。「昨晩、きみのこと心配してたんだよ。びっくりした。無事に家に帰れたかい?」 怖くなりました。あの晩、記憶を失う中、彼に電話をかけて意味不明のメッセージを残したと初めて知ったのです。わたしがちゃんと喋れていなかったから、彼はわたしを心配していたこと、何度も妹を探しに行けと彼がわたしに言っていたこと。彼はもう一度言いました。「昨晩、何があったの? 無事に家に戻れた?」 わたしはイエスと答え、泣くために電話を切りました。

ボーイフレンドや両親に告げる準備など、出来ていませんでした。実はダンプスターの裏で強姦されたかもしれないのだと。誰からいつどうされたのかもわからないのだと。もしもそれを告げたら、彼らの顔に恐怖が浮かぶのを見るでしょう、そしてわたし自身の恐怖が10倍に膨れ上がるでしょう、だから何もなかったのだというふりをしたのです。

考えないように努めたけれど、それはあまりにも重くて、喋ることも、食べることも、眠ることもしなかった。誰とも話しませんでした。仕事の後は誰もいないところに行って、叫びました。喋らない、食べない、眠らない、話をしない、そしてわたしが最も愛しているひとたちから離れて、ひとりぼっちになりました。事件の後一週間、あの夜のことも、わたしに何が起こったかについても、電話もなければアップデートもありませんでした。あれが悪夢ではなかったことを示すたったひとつのシンボルは、わたしの引き出しに眠る病院のスエットスーツでした。

ある日仕事場で、携帯電話でニュースを見ていました。その時、一つの記事が出てきました。その記事で読み、はじめて知ったのです。わたしは発見されたとき意識を失っていたこと、髪はぐしゃぐしゃになり、長いネックレスが首に巻きついていたこと、ブラはドレスから引っ張り出され、ドレスは肩から下ろされ、下はウエストの上まで捲り上げられ、腰からブーツまで丸裸で、足を広げられ、誰か知らない人から異物を突っ込まれ、犯されていたことを。自分に何が起こったのか、そうやって知ったのです。仕事場のデスクで読んだ、新聞記事の中で。世界中のみんながそれを知ったのと同じ瞬間に、はじめて知ったのです。わたし自身に起きたことを。その時にやっと、髪に絡まっていた松葉の意味がわかりました。樹から落ちたのではなかったのです。そのひとがわたしの下着を取り去り、その人の指が、わたしの中に押し込まれたのだと。その人、が誰かも知らないのに。今でも誰なのか知らないのに。こんな風に自分のことを読んで、思いました。これはわたしじゃない、と。

わたしであるはずがない。この情報を消化することも、受け入れることもできませんでした。わたしの家族がこのことをネットで読むなんて想像もできませんでした。わたしは読み続けました。次の段落で読んだものは、決して許すことができません。その誰かによれば、わたしはそれを「喜んだ」のだと。「喜んだ」のだと。ここでもまた、この気持ちを表す言葉が見つかりません。

記事の終わりに、わたしがどんな風に性的暴行を受けたのかという詳細の後で、その記事はその誰かの水泳記録について触れていました。彼女は発見されたとき息があったが呼びかけても無反応で、赤ん坊のように丸くなった身体から約15センチ先に下着が転がっていた。ちなみに彼は水泳の名手なんです、と。

お望みならわたしのマイル記録時間も入れたらいいでしょう。それが問題なのなら。わたしは料理が得意ですが、それも入れたらいかが? いちばん後に関係ないことを放り込んで、そこで起こった胸の悪くなるようなこともすべて帳消しってことですね。

その報道が出た晩、わたしは両親に言いました。襲われたの、と。ニュースを見ないで、あまりに酷いから。でも、わかって、わたしは大丈夫、ここにいるわ、わたしは大丈夫だから。けれどもそれを伝えている途中に、母はわたしを支えなければなりませんでした。立っていることができなかったんです。大丈夫なんかじゃなかった。

その事件の晩、その彼は、わたしの名前も知らないと言った。ずらりと並んだ中からわたしの顔を識別することもできないし、何かやりとりしたかも言えないし、言葉もなく、ただ踊ってキスをした、と。ダンスというのは可愛い言葉ですね。指を鳴らしてくるりと回るダンスでしょうか、それとも混み合った部屋で身体を寄せて蠢めいていただけ? 相手の顔にぞんざいに唇を押し付けることをキスと呼ぶのですか? 刑事が彼に、その女性を寮の部屋に連れ帰るつもりだったか尋ねたとき、彼はノーと言いました。どうやってダンプスターの裏に行ったのか尋ねられ、彼は知らないと言いました。パーティーでは他の女性にもキスをしたと彼は認めました。そのうちのひとりはわたしの妹で、彼を押しのけたのだと。誰かとやりたかったのだと彼は認めました。わたしは群の中の傷ついた一頭だったのです。一人きりで狙いやすく、自分の力で抗うこともできなかった。だから彼はわたしを選びました。

時には、もし自分があの場にいなかったら、こんなことは起こらなかったのだと考えることがあります。でも、否、と気づくのです。同じことが起こっていただろう。被害者が別の人だっただけで。これから四年間、酔っ払った女の子やパーティーの毎日を過ごすのなら、そしてもしそれをこんな風に始めるのなら、それが続けられなくなったのは正解でした。

事件のあった晩、彼は言いました、彼女が喜んでいると思った、だって彼女は僕の背中を撫でたから。背中を撫でた。わたしが合意したとは一言も言わず。言葉を交わしたとも一言も言わず。背中を撫でた、と。

公に報道されたニュースの中で、わたしは知りました。わたしのお尻と性器は外に晒され、乳房は誰かにいじくられ、誰かの指とともに松葉や土までもがわたしの膣に突っ込まれていたのだと。わたしの肌と頭はダンプスターの後ろの地面にこすりつけられて、勃起した大学一年生が、意識を失ったわたしの半裸の身体に跨り犯していたのだと。でもわたしには記憶がないのです。だからどうやって「喜んで」なんかいなかった、と証明しろというのですか。

これが裁判になるなんてありえないと思いました。証人もいる。わたしの身体には土が突っ込まれ、犯人の彼は逃げ出し、捕まえられたのだから。和解し、正式に謝罪して、お互いに別々の人生をまた生きるのだと。でもそうではありませんでした。強力な弁護士を雇い、専門家の証人を雇い、私立探偵を雇ってわたしの生活を調べ上げ、反証に使うつもりだと聞かされました。わたしの証言で一致しない部分を洗ってわたしと妹の話を嘘と決めつけるために。この性的暴行は単なる「誤解」だったと証明するために。ただ彼は「混乱していた」だけなのだと、世界を説得するために。

あなたは襲われたのだと言われましたが、それだけでなく、あなたは覚えていないから、技術的に言えば、合意していなかったと立証することもできないと言われました。そのことでわたしは歪み、傷つき、壊れかけました。外で、公の場所で襲われ、強姦されたのに、それが暴行になるのかどうかもわからない。そう告げられて困惑する悲しみがわかりますか。それはおかしいと、何かがおかしいと、それを示すのに一年間、戦い続けました。

もしかしたら勝てないかもしれない、心の準備をしてねと言われたとき、わたしは言いました。そんな心の準備は出来ません、と。わたしが意識を取り戻した瞬間から、彼は有罪でした。彼から被った傷を無かったものにすることは、誰にもできません。

最悪なことに、こんな警告も受けました。あなたは記憶が無いのだから、筋書きを書くのは彼だ、と。なんでも言いたいことが言える、そして誰もそれに挑戦できない。わたしは力も無く、声も無く、守るものも無い。記憶を失っていたことは、わたしに対して不利に使われるだろう。わたしの証言は弱く、不完全で、勝てないのではないかと信じ込まされました。そうしたことで、ひとはどれだけの傷を負うか、判りますか。彼の弁護士は陪審に言い続けました。彼女は覚えていない。だから信じられるのはブロックの言葉だけだと。その無力感は、傷になって残っています。心を癒すために時を過ごすのではなく、わたしは恐ろしい細部まであの晩のことを思い出そうとして時を過ごしました。ずかずかと踏み込むような、攻撃的でわたしの隙を突こうとし、わたしや妹から少しでも矛盾した答えを引き出してはわたしの答えを歪めるような弁護士の尋問に、準備するために。彼の弁護士は、擦り傷を負っていたことに気づきましたか、と尋ねる代わりに、こう尋ねました。擦り傷を負っていたことにさえ気づかなかったんですよね? それは、わたし自身が自分を信じなくなるよう仕向けるための、戦略のゲームでした。性的暴行があったことは明白なのに、わたしは法廷でこんな質問に答えなければなりませんでした。

年齢はいくつ? 体重は? その日に食べたものは? 夕食に何を食べたんですか? 誰が作った?夕食時に何か飲みましたか? 飲んでない? 水さえも? いつ飲みました? どのくらい飲みました? どんな容器で? 誰からその飲み物を受け取りました? いつもどのくらい飲むんです? このパーティーに連れて行ったのは誰? 何時に? 正確に、どこで? 何を着ていたんですか? なぜこのパーティーに行ったんです? そこに着いて何をしました? 本当にそうしたんですか? 何時にそれをしたんですか? このテキストメッセージはどういう意味ですか? 誰に送信していたんですか? いつオシッコしました? どこでオシッコしました? オシッコしたとき誰が側にいたんですか? 妹さんが電話したとき電話はサイレントにしていたんですか? 自分でサイレントにしたのか覚えていますか? 本当ですかだってあなたは証言録53ページで鳴るように設定していたと言ってますよね。大学のとき飲酒しましたか? パーティーアニマルだったんですか? 何度くらい意識を失いました? 社交パーティーにも行きましたか? ボーイフレンドとは本気でつきあっているんですか? 性行為もしますか? いつデートし始めたんですか? 浮気しようと思ったことは? 浮気歴はありますか? 彼に報いようと思ったって、どういう意味ですか? いつ目覚めたのか覚えていますか? カーディガンを着ていましたか? カーディガンの色はなんですか? あの晩のことそれ以上覚えていないんですか? ああもういいです、後はブロックに証言してもらいますから。

削ぎすまし尖った質問が矢のようにわたしに降り注ぎ、私生活、恋愛、わたしのこれまでの履歴、家族のこと、それらを解剖し解体し、虚ろな問いが瑣末な詳細をほじくり出してこの男に言い訳を与えようとしました。わたしの名前さえ尋ねようとしなかった男、わたしを見てからたかが数分後にわたしの服を脱がせた男に。身体が襲われた後、わたしはわたしを攻撃すべく研ぎ澄まされた質問の矢に襲われました。ほら見ろ、彼女の言っている事はおかしい、頭がおかしいんだ、アル中に違いない、ヤられたかったんだろ、彼は運動選手だし、ふたりとも酔っていたし、どうでもよかった、彼女が覚えている病院のことなんて事件の後の話で、そんなこと考慮するにも足りない、ブロックは失うものが大きいから、大変な目に遭っているんだ。

 

そして彼の証言になりました。そこでわたしは、更なる被害に晒されました。もう一度言いますが、事件の後、彼はわたしを寮の部屋に連れ帰るつもりなんかなかったと証言しました。なぜダンプスターの後ろにいたかも知らないと。気分が悪くなったので帰ろうと思った、そうしたら突然追いかけられて投げ出された、と。でもその後、彼は知ったのです。わたしが記憶を失っていたことを。

そして一年後、突然、新しいシナリオが浮上しました。ブロックは奇妙な新しい理論を打ち出したのです。下手に書かれた安っぽいアダルト小説みたいに。キスをして一緒に踊って手をつないで地面に転がり込んだ、と。そして留意すべきことに、この新しい理論では突然、合意があったということになりました。事件から一年後、彼は突然思い出したらしのです、ああそうだそういえば彼女は合意してたから。すべてに。そういえばそうだったんです。

彼はわたしに、踊りたいか尋ねたそうです。

わたしはイエスと言ったそうです。彼はわたしに、一緒に寮の部屋に行きたいか尋ねたそうです。わたしはイエスと言ったそうです。ほとんどの男は尋ねませんよ。触っていい? と。普通は、自然に起こるものです。お互いに合意して。質疑応答みたいではなくて。でも、彼によればわたしは完全に合意していたそうです。だから彼は無罪なのだと。

この理論を受け入れたとしても、会話はほとんどなかったことになりますね。彼がわたしを半裸で地面に押し倒すまで、わたしは三語しか発していないことになります。三語しか発せずに性的挿入を受けたこと、わたしは一度もありません。その晩一度でも、わたしが主語も述語も揃った会話をしたと、彼は証言出来ませんでした。だからわたしたちがあの場で「会った」と報道されても、どうしてそう言えるのか不思議に思います。将来のご参考にどうぞ。もしも女性が合意したかどうか判らない時は、彼女が主語も述語も揃った文章を発話できるかどうか確認したらどうですか。あなたはそれもしなかった。連なった意味ある言葉さえ引用できなかった。もしも彼女が発話できないのなら、触らないで。たぶん、じゃなくて、ただ、ノー、なのです。

あなたによれば、わたしたちが地面に寝そべっていた理由は、わたしが倒れたからだそうです。ちょっと待って。女の子が倒れたら、助け起こしてください。もし彼女が酔っていて歩くことが出来ず倒れたら、彼女に跨って下着を剥ぎ取って犯して手を彼女の性器に突っ込むのではなく。女の子が倒れたら、助け起こしてください。ドレスの上にカーディガンを羽織っていたら、胸を触るためにそれを剥ぎ取ったりしないでください。寒いかもしれないでしょう。だからカーディガンを羽織っていたのでしょう。あなたが体重をかけて犯している間、裸にされた彼女のお尻と足が松葉や松ぼっくりに擦られていたのなら、身体を離しなさい。

その次に起こったこと。ふたりのひとがあなたに近づいたそうですね。怖くなって逃げた、とあなたは言いました。あなたは、見つかったから怖かったんでしょう。ふたりのスウェーデン人の大学院生におびえたのではなく。あなたが「いきなり攻撃された」から怯えたなんて、馬鹿な話です。意識を失ったわたしの身体の上で、あなたがしていたことと、まるで関係がないみたいに。あなたは言い訳なしに、現行犯で捕まったのに。彼らにタックルされた時、なぜ言わなかったんですか? 「ちょっと待って、大丈夫なんだ、彼女に聞けばわかる、彼女はそこにいるから証言してくれるよ」と? あなたによれば、ついさっきわたしに同意を確認したんですよね? わたしは意識があったんですよね? 警官が到着しスウェーデン人の学生に質問したとき、そのひとは目撃したことの酷さに涙を流し、言葉が出なかったそうです。

それに、もしあなたが本当に彼らが「怖い」と思ったのなら、あなたは半裸の女性を置き去りにして、自分の安全だけを求めたことになりますね。どう考えても、理に叶わない話です。

あなたの弁護士は繰り返しこう言った。いつ彼女が意識を失ったのかも判らない、と。そうですね、もしかしたらわたしはまだ目をぱちくりさせて、完全に脱力していなかったのかもしれません。でも有罪かどうかは、わたしがいつ意識を失ったのかに拠るものではありません。そんなことは最初から関係ないのです。地面に倒されるよりずっと前に、わたしは呂律が回っておらず、同意できる状態にないほど酔っていたのだから。わたしはそもそも触られるべき状態にはなかったのです。

ブロック、あなたは言いました。「彼女が応えていないのには全然気づきませんでした。もしも応えていないと気づいたなら、すぐに止めたのに」 ちょっと待って。わたしが応えるまで[犯すのを]やめない、と考えるのなら、あなたはまだ判っていないのです。わたしが無意識のときさえ、それを止めなかったのでしょう! 

他の誰かが、あなたを止めたんですよ。自転車に乗ったふたりの男性が、わたしが動いていないのに気づいて、あなたにタックルしたんです。あなたがわたしに跨っていたとき、わたしが反応していないと、なぜ気づかなかったんですか?

あなたは言いました。[犯すのを]やめて、助けを求めただろうと。そう言いましたね。でも説明してください。どうやって助けたんですか? ひとつひとつ説明してください。知りたいんです。もし「怖そうな」スウェーデン人の学生がわたしを見つけてくれなかったら、どうなっていたか。あなたに聞いているんですよ。あなたはわたしの下着を、ブーツに通しまた着せてくれましたか? わたしの首に巻きついたネックレスをほどいてくれましたか? 広げられたわたしの足を閉じて、身体を覆ってくれましたか? わたしのブラをドレスの中に戻してくれましたか? 松葉を髪から梳き落とすのを手伝ってくれましたか? わたしの首やお尻の擦り傷が痛いかと聞いてくれましたか? わたしの友だちを探して、わたしをどこか温かく柔らかな場所へ連れていくのを手伝って、と言いましたか? スウェーデンの学生たちがそこにいなかったらどうなっていただろうかと思うと、眠ることもできません。わたしはどうなっていたでしょう? あなたはそれに答えることはできませんでした。一年経った今も、あなたはそれに答えていません。

宣誓をしてこう言うのですか。わたしがそれを求めていたと、わたしがそれを許していたと、そしてあなたの方がよく判らない理由で攻撃されたのだと。それは病的、妄想、自己中心的で、ありえないことです。あなたはどんな手段を使っても、わたしの信用を損ない、わたしの言葉を意味無きものとし、わたしを傷つけても良いのだと正当化するのですね。あなたはあなた自身を、あなたの評判を救うために、わたしを犠牲にしようと努めてきました。

わたしの家族は、松葉でいっぱいの担架に縛りつけられたわたしの頭、土にまみれたわたしの身体、目を閉じて、ドレスを捲り上げられ、暗闇の中で足の自由も利かないさまを見せられました。その後でなお、あなたの弁護士が言うのを聞かされたのです。この写真は事件後に撮られたものだから、考慮に値しない、と。そうですね、看護師は彼女の身体の中に血の滲んだ跡と擦り傷があったと言いましたが、それは指を入れたら起こることでしょう、それについてはもう認めましたから、と。わたしの妹の言葉をわたしに不利になるように使って。彼がわたしを、誘惑することに狂ったパーティーアニマルのように描写するのを聞かされ。まるで、わたしが強姦されるのを招いたかのように。電話でも呂律が回っていなかった、彼女は馬鹿で、そうやって馬鹿みたいに話すんだと。わたしの[ボーイフレンドへの]ボイスメールの中で、ボーイフレンドに報いようと言ったのだと、みんなそれが何を意味するか知っていたのだと。申し上げておきますが、わたしの報償プログラムは転移不可能なんです。特に、わたしに近づいてくる名前も知らぬ男性には。

こうしたことに、わたしの家族やわたし自身が、この裁判の間ずっと晒されてきたのです。口をつぐんで、黙って、彼がその晩のことを定義するのを眺めながら。傷つけられる、それだけでも充分です。なのにその痛みを、その重さを、その正当性を、まるで無かったことのように貶められる気持ちが判りますか。でも最終的に、彼の証拠に基づかない証言や、彼の弁護士のひねくれた論理は誰を欺くこともできませんでした。真実が勝ったのです。真実が口を開いたのです。

あなたは有罪です。十二人の陪審が、合理的疑いを超えて、あなたが三訴因において有罪だと評決を下したのです。一訴因につき12票。36の票が有罪だと告げた。100パーセント、全員一致の有罪評決です。ああやっと終わったのだ、彼はやっと自分の罪を認め、心から謝罪し、そしてお互いにより良き道を求めて歩いて行くのだと思いました。

でも、そこで、あなたの声明を読みました。

もしあなたが、わたしの内臓が怒りで破裂して死ねばいいと思っていたのなら、そこでほぼ目的を達することが出来たでしょう。そこでわたしを殺すことさえ出来たでしょう。襲撃、は偶発事故ではありません。大学のパーティーで飲みすぎて思わぬ一夜になってしまった、そんなものではありません。まだ判らないのですか。まだ、判らないみたいですね。

ここで被告の声明の一部を読み上げ、それに答えたいと思います。あなたはこう言いました。酔っていたから自分自身きちんと判断できなかったし、彼女もそうだった、と。

お酒は言い訳になりません。要素ではあったか? そうですね。けれどもわたしを裸にしたのはアルコールではありません。わたしをほとんど裸にし、わたしの頭が地面を擦るのにも構わずに指を突っ込んだのは「アルコール」ではありません。飲みすぎたのはわたしの間違いでした。でもそれは犯罪ではありません。ここにいる誰もが、飲みすぎた経験があるでしょう。あるいは飲みすぎたと後悔したひとを身近に見たことがあるでしょう。飲みすぎを後悔するのは、誰かを性的に虐待したことに後悔するのとは違います。二人とも酔っていました。けれど違いは、わたしはあなたのズボンと下着を脱がせ、あなたの身体に触り、そして逃げるということはしなかった。違いはそれです。

あなたは言いましたね。もし彼女を知りたいと思ったら、部屋に連れて行くよりも、電話番号を尋ねるって。

わたしはあなたがわたしの電話番号を聞かなかったから怒っているのではありません。もしもあなたがわたしを知ったとしても、こんな状況にはならなかったでしょう。わたしのボーイフレンドはわたしのことを知っているけれど、もし彼がわたしにダンプスターの後ろできみに触ってもいい、と尋ねたら、ひっぱたいているでしょう。こんなことを許す女性はいません。いません。その女性の電話番号を聞こうが聞くまいが、関係ありません。

あなたは言いました。周囲でみんながしていること、つまりお酒を飲むことを自分もしていいと思った、それが間違いだったと。

違います。あなたが飲酒したから間違ったのではありません。飲酒していたあなたの周囲の人たちはわたしに性的暴行を加えていましたか? 他の誰もしていなかったことをしたから悪いのです。ズボンの中で勃起したあなたの性器を、暗闇に隠れてわたしの裸の無防備な身体に突っ込んでいた。パーティーにいた人たちには見えず、守ることもできず、わたしの妹さえも見つけられないところで。ファイアーボールのカクテルを飲んでいたことがあなたの罪なのではありません。わたしの下着を、まるで飴の包み紙を剥がすみたいに剥ぎ取ってわたしの身体に指を突っ込んだ。それが罪なのです。なぜここでそんなことを説明し続けなければならないのですか。

あなたは言いましたね。裁判の中で、彼女を被害に遭わせたくなかったと。それはただ単に、自分の弁護士のやり方だったんだと。

あなたの弁護士はあなたの身代わりではありません。あなたの弁護をしているのですよ。その弁護士は信じられないような、酷い、ひとを貶める発言をしましたか? ええ、しましたね。外が寒かったから勃起したのだと。それには言葉を失いました。

あなたは言いましたね、高校や大学の学生のために、「大学のキャンパスにおける飲酒文化やそれに伴う奔放な性の風潮について、自分の経験をもとに問題提起するプログラムを作っているところ」だと。キャンパスにおける飲酒文化について問題提起する。ここで問題になっているのはそれですか? わたしが過去一年戦ってきたのはその問題だと思っているのですか? キャンパスにおける性的暴行や、強姦や、相手が合意しているかどうか見定めることではなくて? キャンパスにおける飲酒文化。ジャックダニエルに溺れればいい。スカイ・ウォッカに溺れればいい。飲酒のことについて話したいのなら、アル中の告白会に行けばいい。飲酒の問題と、飲酒して誰かと強制的に性交しようとすることの違いが、判らないんですか? 飲酒を減らそう、じゃなくて、女性に敬意を払うことを示したらどうですか。

飲酒文化とそれに伴う奔放な性の風潮。それに伴う。まるで副作用みたいに、まるでハンバーガーについてくるフライドポテトみたいに。奔放さ、が何に関係あるんですか? ブロック・ターナー、飲み過ぎとそれに伴う性の奔放さにつき有罪。そんな記事見たことありません。キャンパスにおける性的暴行。あなたが作るべきパワーポイントのプレゼンテーションは、そこから始まるべきでしょう。

もう十分に説明しました。肩をすくめ判らないふりをすることは、もう出来ません。危険信号が出ていなかったふりをすることも出来ません。なぜ自分が逃げ出したのか、知らないふりも出来ません。あなたは、害を与えようという意図を持ってわたしに暴行を加えた罪で有罪となりました。それなのに自分で認めるのは飲酒していたことだけですか。アルコールのせいで悪いことをした、人生が変わってしまった、というのですか。自分自身の行為に責任を持つことを学んだらどうですか。

それから、あなたは言いました。みんなに伝えたいと。一晩の飲酒で、ひと一人の人生が台無しになると。

ひとり分の人生が台無し。ひとり、ひとつ。あなたの人生だけ? わたしの人生を忘れていませんか。言い直してあげましょう。一晩の飲酒で、ふたりの人生が台無しになるんです。あなたの人生と、わたしの人生。あなたが原因で、わたしは結果です。あなたがわたしをこの地獄にひきずりこんだ。あなたがわたしを、あの夜に、何度も、何度も、何度も連れ戻した。わたしたちふたりの塔を壊したのはあなたです。あなたが崩れたと同時にわたしも崩されたのです。あなたの受けたダメージは具体的でしょう。地位も、学位も、入学資格も失った。わたしの受けたダメージは内的で目に見えないもの。それをわたしは抱えています。あなたはわたしから価値を奪い、プライバシーを、力を、時間を、安全を、親密な関係を、自信を、声を、奪ったんです。今日まで。

ひとつわたしたちに共通しているのは、ふたりとも朝起きることができない点ですね。痛みは今に始まったことではありません。あなたが、わたしを被害者にしたのです。新聞ではわたしは「意識を失った酩酊した女性」とだけ書かれています。それだけ。しばらくの間、わたしは自分がそれだけの存在なのだと信じました。わたしの名前、自分が誰であるかを学びなおすよう、自分に強いなければなりませんでした。自分はそれだけの存在ではない、と。わたしはただの、ダンプスターの後ろで見つかった社交パーティーの酔っ払った被害者ではない、一方あなたは名門大学の全米屈指の水泳選手で有罪が立証されるまでは無実、それに失うものが沢山ある。わたしは取り返しのつかない傷を負わされた人間です。自分に何らかの価値があるのか、一年間探り続けてきました。

わたしの独立心、自然に湧き出る喜び、優しさ、これまで楽しんできた落ち着いた暮らしは、跡形もなく歪められました。わたしはひきこもり、怒りっぽくなり、自虐的で、疲れやすく、イライラし、空っぽでした。孤独は時には耐え難いものでした。あなたは、あの晩の前にわたしが持っていた人生を返してくれることもできないのです。

あなた自身の評判が台無しだと心配しているそうですが、わたしは毎日スプーンを冷蔵庫に入れて冷やしています。起きた時、泣きすぎて腫れた目にスプーンを当てるために。そうでないと、世界がよく見えないのです。毎日仕事には一時間も遅れ、涙が抑えきれなくなると言い訳して持ち場を離れて階段に出て…仕事場のビルでいちばん安心して泣けるのは階段なんです。傷が深すぎて辛すぎて仕事を辞めなければなりませんでした。毎日を生きることさえ、もう不可能だったからです。貯金していたお金を使ってできる限り遠いところへ逃げたりもしました。

夜は5歳のこどもみたいに、電気を点けたままでないと眠ることができません。誰かに触られる夢、覚めることのできない夢を見るから。だから太陽が昇るまで待って光の中でやっと安心して眠れるんです。三カ月ものあいだ、朝の六時まで眠れませんでした。

以前は自立していたことに誇りを感じていたのに、夕方散歩に出ることも怖くなってしまいました。友だちと一緒に飲みに行くことさえ怖い。本当なら安心できるはずなのに。小さな一枚貝みたいにいつも誰かにくっついていないと安心できなくて、ボーイフレンドにいつもそばについていてもらい、横で眠ってもらい、守ってもらわなければならなくなりました。こんな風に弱くなるなんて、恥ずかしいことです。おどおど、ビクビク怯えながら人生を生き、すぐに逃げこもう、守りに入ろうとし、怒りっぽくなって。

あなたにはわからないでしょう。わたしはまだ弱っているけれど、せめてここまで自分を取り戻すにも、どれだけもがいてきたか。何が起こったのか。それを話すだけでも、八カ月かかりました。ともだちと話すことすらできない。周りのひと、誰とも。このことを持ち出されるたび、ボーイフレンドや家族に対してさえ、叫び声を上げました。わたしに何が起きたのか、あなたは決して忘れさせてくれない。裁判の聴聞のあと疲れすぎて口を開くこともできませんでした。疲れきって、言葉も出ず。家に帰って電話をオフにし、何日間も口を開きませんでした。あなたがわたしを送りこんだのは、ひとりぼっちの惑星でした。新しい記事が出るたびに、町中がわたしのことを、襲われた女の子と知るだろう、と不安にとらわれました。同情など欲しくなかったし、自分のアイデンティティに「被害者」が含まれることを、まだ受け入れることができずにいました。あなたのせいで、わたしにとって、育った街さえも居心地の悪い場所になったのです。

いつか、あなたは救急車にかかったお金やセラピーにかかったお金を返してくれるかもしれません。でも、眠れない夜を返してくれることはできません。映画を観ていて女性が傷ついたときには、身を投げ出して泣き崩れてしまう。控えめに言っても、他の被害者たちの境遇に胸が張り裂けてしまうから。ストレスで痩せ細り、誰かに痩せたと言われたらたくさんジョギングしているんですと嘘をついて。触られたくない時もあります。自分は弱くなんてないのだと、いろんなことができる、全き一人の人間なんだと、ただ色を失った弱きものではないのだと、再び学び直さねばなりませんでした。

もうひとつ言いたいこと。あなたがわたしに与えた傷や数え切れないほどの涙なら、我が身に引き受けることもできましょう。けれど妹が傷つくさまを見るとき、学校での勉強にも追いつけなくなり、喜ぶことも、眠ることも出来なくなり、息をすることもできないほどに電話の向こうで泣き咽び、あの日わたしをひとりにしたことをごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいと言い続け、あなたが感じているよりずっと大きな罪悪感をわたしの妹が感じているのを見ると、あなたを許すことは出来ません。あの夜、妹を見つけようとして電話をしたけれど、あなたが先にわたしを見つけたのでした。あなたの弁護士の最終弁論の出だしはこうでした。「姉は大丈夫と言ったと彼女の妹は言いました。姉妹なのだから誰よりよくわかっているでしょう」と。あなたは、わたしの妹の言葉をわたしを口撃する道具に使おうとしたのです。あなたの攻撃のやり方は脆弱で最低、見ていて恥ずかしくなるほどでした。彼女に触らないでください。

あなたが今日大きな傷を受けるのに、一方でわたしは助かったのだと、傷つかずに浮上したのだと、今日わたしは勝利の彼方へ去っていくのだと考えているなら、間違いです。誰も勝った人はいません。わたしたちはみんなこのあまりにも大きな苦しみの中に何らかの意味を見出そうとし、疲れきっているのです。

あなたは、こんなことを、決して、わたしに、するべきではなかった。そして、こんな風にわたしを戦わせ、あなたはこんなことを決してわたしにするべきではなかったと言わせるほどに、戦いを長引かせるべきではなかった。でもわたしたちは今ここにいる。既に傷はつけられた。誰もそれを元に戻すことはできない。そして今、わたしたちには選択肢があります。このことで互いの人生を台無しにすることだって出来る。わたしは怒り続け傷つき続け、あなたはそれを否定し続けることもできる。あるいはそれに正面から向かい合って、わたしは痛みを引き受け、あなたは罰を引き受け、互いにまた歩き続けることもできるのです。

あなたの人生はまだ終わりではありません。自分の人生を書き直すのに、まだ何十年もあります。世界は広い。パロ・アルトの町よりも、スタンフォードよりも。そしてそこであなたも、誰かの役に立ち幸せに生きる、そんな場所を作り出すことができる。今、あなたの名前は汚れている。だからわたしはあなたに言いたいのです。新しく名前を築き直せばいい、世界のためになることをすればいい、みんながあっと驚くような。あなたは頭もいいし声を届かせることもできる、心だってあるのでしょう。それを賢く使いなさい。ご家族を愛しておられるのでしょう。それだけでも、どんなことも乗り越えていける。わたしの家族も、このあいだじゅうずっとわたしを支えてくれました。あなたの家族もあなたを支え、また歩き出していくでしょう。

信じています。いつの日か、あなたもこのことをもっとわかってくれると。より良い、もっと誠実なひとになって、こんなことがもう二度と起こらないように、この物語をもっときちんと使えるように。あなた自身が癒されるよう、あなた自身の人生を築き治せるよう、あなたの旅をわたしは心から応援しています。なぜなら、それだけが、お互いを助け歩いていける道だから。

ここで、量刑について述べます。保護観察官の報告書を読んだ時、信じられませんでした。怒りに燃え、それはやがて、深い悲しみに沈みました。わたしの声明は歪められ、文脈からかけ離れたところで切り取られていました。この裁判でわたしは懸命に闘いました。その結果を、保護観察官のたった15分の聞き取り、しかもそのほとんどがわたしが司法制度について抱いていた質問に答えるのに費やされた15分の聞き取りで、矮小化されるなど受け入れることができません。このことにおいて、文脈は重要です。ブロックはまだ声明を出していませんでしたし、彼の言葉をわたしはまだ目にしていませんでした。

この一年というもの、わたしの人生は立ち止まり、怒りと苦しみ、不安に苛まれてきました。わたしが耐えるのを強いられた不公正を、陪審員の方々が正してくれるまで。ブロックが罪を認め、後悔の念を示し、早期に和解を申し出ていたのなら、彼の誠意を考慮して量刑を軽くすることも考えたでしょう。そして感謝の心を持って、互いの人生をまた歩み出すことも出来たでしょう。けれども彼は裁判で戦うことを選びました。わたしの私生活やあの日の性的暴行について公の場で事細かに根掘り葉掘り問い詰め、傷に侮辱を上塗りすることを選びました。一年もの、説明しがたい、必要のない苦しみにわたしとわたしの家族を陥れた彼は今、その結果に直面すべきなのです。罪の有無に挑戦し、わたしの痛みを衆目に晒し、正義が下されるまでこんなにも長い道のりを歩かせたことの。

わたしは保護観察官に言いました。ブロックが刑務所でぼろぼろになることを望んではいない、と。けれども、刑務所に入るべきではない、とは言いませんでした。保護観察官の下した推薦、郡留置場で一年以下の禁錮という推薦は、ちょっとしたおしおきであり、彼の暴行の深刻さ、わたしが耐えることを強いられた苦しみの結果を嘲笑うかのような甘い措置です。わたしはまた、保護観察官にこう言いました。本当に望んでいるのはブロックにわかってもらうこと、理解してもらうこと、悪いことをしたのだと認めてもらうことなのだと。残念ながら、被告人の声明を読んだ後、わたしはとてもがっかりました。彼は誠実な後悔の念や自分自身の行為の責任を受けいれていません。裁判を受ける権利があることは理解しますが、十二人の陪審員が全員一致で三つの重罪に有罪評決を下した後でも、彼が認めたのはアルコールを飲んだこと、それだけです。

自分自身の行為の責任をきちんと取れない人には、量刑の軽減を受ける資格はありません。性の奔放さ、などという言葉を使って強姦の重さを薄めようとするなんて、極めて許しがたいことです。強姦の定義そのものが、奔放さの不在を含んでいます。合意がないから強姦なのです。その違いさえ彼が判っていないのは、恐ろしいことだと思います。

保護観察官は、被告人が若く、犯罪歴がないことを考慮しました。わたしが思うには、彼は自分がしたことが悪いことだと理解できる年齢です。この国では、18歳になると戦争に行くことが出来ます。19歳にもなれば、誰かを強姦しようとした罪の責任を取るに足る年齢です。彼は若いけれど、自分のしたことが間違っていると判っていい年齢でしょう。

これが初犯であることが軽減事由となることはわかります。その一方で、わたしたちは社会として、初犯の強姦ならみんな許す、指を使った強姦ならみんな許す、そんなわけにはいきません。そんなのおかしいでしょう。強姦という罪の深刻さは、明白に伝えられねばなりません。試行錯誤で強姦って悪いことだと学んでいく、そんな文化を作るわけにはいかないのです。性的暴行の結果は重大でなければなりません。その罪の重さと刑罰への恐怖ゆえに、お酒に酔った時ですら判断力がはたらくように。暴行をしないよう予防線を張るように。ブロックが名門大学のスター・アスリートである事は、量刑の減免を受ける資格と見做される理由になりません。むしろ、社会的にどんな階級に属するにせよ、性的暴行は犯罪なのだという強いメッセージを送る機会とするべきでしょう。

保護観察官は、彼が頑張って勝ち取った水泳の奨学金を諦めねばならなかったことを考慮に入れました。もしもわたしがコミュニティ・カレッジ[訳注:短期大学]の運動選手ではない男に襲われていたら、その人の量刑はどんなだったでしょうか? 特権を持たない階級の初犯の加害者が三つの重罪で起訴され、飲酒していたこと以外は自分の責任を全く認めなかったとしたら、その人の量刑はどんなだったでしょうか? 彼がどれだけ速く泳げるかは、彼がわたしにしたことの影響を軽減する理由にはなりません。

保護観察官はこう言いました。この事件は、他の類似した事件とくらべて、被告人が酩酊していた事由により深刻性が少ないと考えられる、と。深刻ですよ。もうそれしか言えません。

彼は一生、性犯罪者として登録しなければなりません。これは満了することはありません。同様に、彼がわたしにしたこともいつか期限終了するなんてことはありません。何年か経ったら消えて無くなる、なんてことはありません。それはわたしに永遠に残り、わたしのアイデンティティの一部となり、わたしが歩いていくやり方を、わたしが残された一生を生きるやり方を、永遠に変えてしまったのです。

一年が過ぎ、彼にはたくさんの時間がありました。精神科医に会いましたか? この一年間、彼が成長したのだと見せてくれる証拠はありましたか?もしもプログラムを始めたいというのなら、それを示すために何をしましたか?

禁錮の間、彼が自分の人生をやり直せるよう、十分なセラピーや手段を与えられることを望みます。大学での性的暴行について、彼が自ら学ぶことを要請します。適正な罰を受け止め、よりよい人間となって、再び社会に戻れるよう全力を尽くすことを望みます。

最後に、お礼を言いたいのです。あの朝、わたしが病院で目覚めた時にオートミールを作ってくれたインターンの方に。わたしが目を覚ますのを傍で待っていてくれた副検事に。わたしをなだめてくれた看護師たちに。決めつけることなくわたしの話に耳を傾けた刑事に。いつも変わりなくわたしの傍で支えてくれた人たちに。傷つきやすさの中に強さを見出すよう教えてくれたわたしのセラピストに。わたしを理解し、優しくしてくれたわたしの上司に。痛みを強さに変えることを教えてくれたわたしの素晴らしい両親に。もう一度笑顔になることを思い出させてくれたわたしの友人たちに。我慢強く愛情深いわたしのボーイフレンドに。わたしの心の半分である愛する妹に。決してわたしを疑うことなく疲れも知らず戦ってくれたアレイラ[副検事]に。この裁判に関わったすべての人の、お時間と配慮に。わたしに渡すようにと担当検察官に励ましの葉書を送ってくれたこの国中の女の子たちに。わたしを気遣ってくれた、たくさんの顔も名前も知らない人たちに。そして最も大切なことに、まだお目にかかっていないけれど、わたしを助けてくれたふたりの男性に。この物語にもヒーローがいるのだと思い出せるよう、ふたつの自転車の絵を描いて、ベッドの上に貼って眠っています。助け合うこともできるのだと。これらの人々を知ることができたこと、彼らが守ってくれている、愛してくれていると感じたこと、わたしは決して忘れないでしょう。

そして最後に、世界中の女の子たち、わたしはあなたと共にいます。ひとりきりだと感じる時、わたしはあなたと一緒にいます。人々があなたを疑い、信じてくれない時、わたしはあなたと一緒にいます。あなたと一緒に、毎日、戦っています。だから、戦うのをやめないで。わたしはあなたを信じているから。灯台は島じゅうを駆け回って助けを求める小舟を探すことはできません。ただそこに立ち、光を放っています。わたしもすべての小舟を救うことはできないけれど、今日ここでお話ししたことで、小さな光を受け取ってくれたらと願っています。ほんの少しでもいい、知ってください。あなたは沈黙を強いられることはないのだと。正義が勝つこともあるのだと。わたしたちも何かを変えることができるのだと。そして、たくさん、知ってください。あなたは大切な人なんだと。疑いもなく、誰もあなたに触れることなんてできない。あなたは美しい。あなたは価値のある存在。敬意を受け、否定されることなく、毎日、一秒一秒、あなたには力がある、誰もそれをあなたから奪い去ることはできない。世界中のすべての女の子へ。わたしはあなたと共にいます。

ありがとうございました。


(被害者の声明文原文はこちらで読めます)

 

author : watanabe-yo
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巴里だより その三 市場へ

【2016.04.25 Monday
13:05
 楽しかった欧州の旅を終え、マンハッタンへ戻りました。長い春休みも終わり。でもフランス旅のおみやげ話をもう少し、続けましょう。
 
*  *  *
 
巴里の日曜日。忘れていたけど、欧州では日曜日には多くのお店が休みになるのでした。今回滞在しているサンジェルマン・デ・プレの界隈も、平日と打って変わってひっそり。でもね、にぎやかな一角がありました。それは「マルシェ」、市場!
 
市場、を示すフランス語marchéと、英語のmarketはどちらも、「売り買い」を意味するラテン語のmerxから来ているそうです。
 
ちなみに、英語では値段が「高い」はexpensive、「安い」はcheapと、それぞれ一語で表現できますよね。でも、フランス語では「高い」=cher(シェール)という言葉はあっても、「安い」を示す一語の単語はないのです。では、お財布にやさしい値段のことを、フランス語ではどう表現するのか?

 
ひとつには、pas cher(パ・シェール)。「高くない」、という意味です。

でもね、それよりもっと好きだなって思う言葉は、bon marché(ボン・マルシェ)。「マルシェ」は名詞では「市場」だけど、bon marché(ボン・マルシェ)といえば「良い買いもの」、つまり「お買い得」という意味になります。「安い」じゃなくて「良い買いもの」…言葉の違いといってしまえばそれまでだけれど、フランス語の好きなところは、こういうところ。少し詩ごころがあると思いませんか?
 
さてさて、言葉の世界に少し寄り道をしてしまいました。巴里の市場に戻りましょう。
 
* * *
 
日曜日の朝、まず訪ねたのは、ラスパイユ通りのビオ・マルシェ。「ビオ」というのは「ビオロジック」の略。英語でいえばオーガニック、つまり「有機栽培」という意味です。有機栽培の野菜や果物、薬物を使わずに飼育した牛や山羊のミルクでつくったチーズ、有機小麦やその他の穀物を使ったパン。はちみつやジャム。
 

 
ああ、なんて豊かな! 赤く熟した小さなトマト、新鮮な葉っぱたち、小さな丸い山羊乳のチーズ。かりかりっという音が聞こえてきそうな、こんがり焼けたパン。
 
でもね、うっとりしながらも、ひったくりやスリには気をつけないと。斜めがけの小さなバッグにさりげなく片手を添えつつ歩きます。面白いもので、たとえばニューヨークにいると、相手が英語を話していようが、別の言語を話していようが、肌の色が何色だろうが、ニューヨーカーかどうか、気配で判ります。逆にいうと、巴里ではアジア系でも、服装や気配で「このひとはパリジェンヌ(またはパリジャン)だな」というのもわかるし、おそらく自分は「観光客です」という看板を背負っているふうに見えるはず。なので、いつもより少し気をつけないと…「怯えながら歩く」という意味ではなくて、ただ、前後左右は意識しながら歩くよう心がけていました。
 
さて、ビオのマルシェでは、濃い赤と緑のシマシマが美しいトマトと、熟れた木苺、それからイチジクと木の実が入ったパンを買いました。「わぁ〜」と思いながらあれこれ見て帰ろうと思ったら、美味しそうな匂いが…。
 
野菜のタルトレットのお店、店先でジャガイモと玉ねぎをすりおろしチーズを混ぜたパンケーキを焼いていて、そこから漂う匂いなのでした。

「トマトのタルトをひとつと、そのジャガイモのパンケーキをください」 フランス語で伝えたのですが、店主はこちらを見ると
「ニホンジンデスカ?」(←ニホンゴ)
 
無表情に言われたので、驚き、ちょっと臆してしまって写真撮影はお願いできませんでした。日本からの訪問客が多いのだろうなあ。でも笑顔なし(嫌な表情でもありませんでしたが。単に無表情でした)で言われると、ちょっと複雑(あはは…。だって、わたしはニホンジンじゃないかもしれない。日本育ちの韓国朝鮮籍かもしれないし、中国籍かもしれないし、日系米国人かもしれないし、アジア系のミックスかもしれないでしょ? それに「国籍」ってそもそも人為的なものだし、「何人」だってどうだっていいじゃん。)
 
 しかしそれはともかく、ひとつ買って、はふはふ言いながら齧る。
 

 
店主の意図は知りませんが(ただ単に表情があまりないひとなのかもしれない)、パンケーキは美味しかったです。ラスパイユのビオ・マルシェに行ったら食べてみる価値あり!
 
さて、ひとまず借りているアパルトマンに戻って、木苺やトマトを置いて、身軽になってからまた、街に出ました。お次は「蚤の市」、marché aux pucesを訪ねます。
 
* * *
 
まず行ってみたのは、巴里の南端、ヴァンヴの蚤の市。アパルトマンに誰かが残していったガイドブックによれば、比較的小規模で回りやすい、とのこと。サン・ジェルマン・デ・プレからは、地下鉄で十数分です。駅で降りたらすぐ判るかなと思ったら、下調べが足りなすぎてよくわからず、目の前にあった果物屋のお兄さんに聞いてみました。サリーちゃんのパパ(←昭和世代にはワカル)によく似た、濃い口ひげが印象的な方でした。

「すみません、蚤の市を探しているんですが、どちらに行けばいいのでしょう?」と尋ねると、お兄さんは

「ぬわはははは!!! $$%+#&@**!!」

えええ? $$%+#&@**…ってなんだろう。ちゃんと聞き取れなくてポカーンとしていると、

「わからんかー、ぬわははは! 左だよ! 左にいってまっすぐ!」

なんだったんだろう、からかわれたような気もするけど、厭な感じではなかったからヨシとしよう。果物屋のお兄さんの指差す方向に歩いてみると、ちゃんとありました。
 

 
今回は特に何かを探しているわけではないので、ぶらぶらと歩いてみました。街路樹のある道沿いの青空市で、確かに歩きやすいし安全なのですが、極私的印象としては…少し物足りないかなあ。市場との出会いは、その時々の気分やタイミングもありますね。



ヴァンヴでは、こんな方がひとりでトットットット...と歩いて、市場の見張りをしていましたよ。


 
…ヨシ、ワカッタ。では市場をハシゴしよう!
巴里の蚤の市、といえばクリニャンクール。世界最大規模の蚤の市、とも言われています。数年前に一度行ったことがあるので、ここなら迷わず辿り着けるはず…。とはいえ、いま巴里の北東部は治安がよくないと言われているので、妙な気配を感じたらすぐに引き返そう。そう思いながら、地下鉄で北上しました。
 


巴里のメトロの駅は、こんな感じ。ニュヨークと比べると、地下鉄の車両が短くてびっくり!
駅はニューヨークの地下鉄よりもずっと清潔で、運行間隔も短く、4分くらいで次の電車が来る、という印象でした。



もうひとつ、感心したのはこれ。ニューヨークの地下鉄にも、ひとびとが掴まるための縦棒があるのですが、一本だけなので「スペース争い」あるいは「譲り合い」をしないとみんな掴まることができません。巴里の地下鉄はこんなふうに三叉になっているので、周囲に立っているひとがみんな掴まることができる。極めて合理的!

 
さて、確かに、地下鉄が北にゆくにつれて、車内のひとびとの気配は少し変わっていきます。ニューヨークも地域によってはこんな感じ。少し周囲を意識しつつ(かつ、怖がってはいない感を出すのも大事…あはは、忙しいな)、4番メトロ北の最終地点、「クリニャンクール門」(Porte de Clignancourt)駅へ。
 
 
クリニャンクールの蚤の市は、地下鉄の駅を出てから少し歩きます。
ここは自分の土地勘を信用して歩いたけれど、はじめて行かれる方は事前に通りの名前など頭に入れていったほうがいいかも。駅のそばではサングラスやら時計やらを手に売ろうとする商売人がいっぱいいるし、若干荒っぽい雰囲気なので、この手の「場」に慣れていない場合は十分気をつけてくださいね。(正直いうとフランス語か、せめて英語がしゃべれるほうが安心です。)


駅から蚤の市に行く途中の道では、まったく別の市場が展開されています。売られているのは、Tシャツとか、サングラスとか、廉価な腕時計など。この「別市」を通り過ぎてどんどん行くと、いよいよクリニャンクールの蚤の市です。


上から、
「メトロ、クリニャンクール門」
「アンティカ市場」
「マラシス市場」
「ミシュレ通り」
「蚤の市情報」
「ポール・ベール市場」
「ラントルポ市場」
「ロジエ市場」
「セルペット市場」
 
「クリニャンクールの蚤の市」と一口にいっても、実は幾つかの独立した市場が集まった集合体なのです。屋外に小さな小屋が並ぶ市場もあれば、屋内市場もある。家具屋さんが並ぶ市場もあれば、シャネルやエルメスなど高級ブランドのヴィンテージが並ぶ市場も。

 




家具市場の店先で懸命に見張りをしていたヒト。


もうひとつの家具市場でも、こんなヒトが熱心に店番をしていました。


でもいちばんのおすすめは、迷路のようにくねくねした路地の両脇にヴィンテージの食器や洋服のお店が並ぶ、ヴェルネゾンの市場。メトロの駅から歩いてきて、最初に出会う市場なので、見つけやすいと思います。


ヴェルネゾン市場の路地はこんなふう。細い道の両側にお店が並んでいます。


昼下がりに訪れたせいか、午後の陽を浴びながらくつろぐお店の人の姿も...。



お皿とか、把手とか。「これはなんだろう?」と首をかしげるモノとか。



ああ。これぞ「巴里の蚤の市」という感じ!



我が家にスペースがあったら、こんなお茶セットや、グラスのセットをお迎えしたいものです。



ヴィンテージの洋服やさん。ボーイッシュな女の子が着たら似合いそう! 



こちらは軍の帽子。おかあさんに手を引かれた7〜8歳くらいの子が、「ママ、あれは警察のひとの帽子だよね?」と(欲しい)感全開にしながら見つめていました。


いちばん惹かれてしまったのはこのお店! 眺めているだけで楽しい。
どのポットもすてき! 

 
古いスパイス用の缶を買おうかなって一瞬思ったけれど、マンハッタンのわがアパートは狭くて場所も限られているので今回は断念。いつか、また来るときまで
 
* * *

これぞ巴里の蚤の市! という雰囲気を満喫しての帰り道。
 
メトロの構内に降りて停まっていた地下鉄に乗って数分…。あれ、なかなか発車しないな、と思ったら、アナウンスがありました。全部を聞き取って理解することはできなかったけれど、「手前の駅で怪しい荷物発見」、「警察が来るまでに時間がかかる」、「切符をすでに買ったひとは*&+?*J%*」(←ここ、聞き取れなかった)

念のため、横にいたひとにも聞いてみました。
 
「すみません、英語は話せますか? いまのアナウンス、半分くらいはわかったのですが、わたしはフランス語をあまりよく話せないので…」
 
男性と女性のふたりでしたが、英語が得意というわけではなさそう。でも、親切に教えてくれました。どうやら、わたしが聞き取れた部分(上記)はやはりその通りで、この電車が発車するにはまだ時間がかかるらしい、とのこと。
 
しばらく待ってから、上記のふたりは出て行ってしまいました。まだ車内で発車を待っているひとたちもいたから自分も待ってみたけれど、再度アナウンスがあり、やはり「いつ発車するかは予測できない」とのこと。とは言っても、この駅に乗り入れている地下鉄は4番のみなので、どうすればいいのか。プラットフォームに出てみたら、車掌さんか駅員さんらしきひとを数人が囲んで尋ねているようだったので、そばにいって聞き耳を立ててみました。「このバスに乗ればいい」と、ふたつほどバス路線を教えてもらったので、ひとまず再び地上へ。
 
ところが。バス停に行ってみると、案の定、メトロに乗るのをあきらめたひとたちが殺到していました。これはちょっと怖いし、自分のフランス語は小学生程度なので、何かあってもうまく対処できないかもしれない。
ドル安ユーロ高なので節約できる交通費は節約したかったけれど、土地勘が覚束ないところでは安全一番です。やってきたタクシーに飛び乗りました。運転手さん相手に、「何か怪しいものが見つかったらしくて、メトロが走っていないんです」と報告。
 
実をいうと、米国での暮らしではフランス語を話す機会がほとんどないので、できるだけおしゃべりしてみたくて。「フランス語はあまり上手にしゃべれなくてごめんなさい。でも美しい言語だから大好きなんです」とお断りしてから話してみると、たいていのひとは優しくおしゃべり相手になってくれます。

巴里の北から中心部に行く街並みを眺めながら、十数分のドライブ。地下鉄やバスと比べたらお金はかかってしまったけれど、安全と安心、それに思いがけない市内観光も買ったと思えば、まあよしとしましょう。
 
もう少し散歩したくて、セーヌ河の真ん中のサン・ルイ島でタクシーを降りました。ここは観光名所なので、浅草のように観光客ワンサカ(笑)。自分も観光客なので、むしろちょっとホッとしたり…。
 



サン・ルイ島とシテ島をつなぐ橋は、週末になると大道芸人の舞台になります。
こちらのお兄さんたちは出番を待って小休止。ボーダーのTシャツと赤いネッカチーフがお洒落なので思わずパチリ。
 
* * *

巴里の市場のはなし、少し長くなってしまいましたね。おつきあいくださってありがとうございます。おみやげばなし、まだ続きますよ…


 
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巴里だより その二

【2016.04.11 Monday
06:15
街を歩いていくと河に出る、というのはいいものですね。巴里は街の真ん中にセーヌ河が流れています。今回は左岸に滞在しているので、右岸に足を運んでみました。
 

左は大観覧車、右は3000年昔に作られ、エジプトからフランスに運ばれた、ルクソール王朝のオベリスク。

 
エッフェル塔やルーブル美術館など「ザ・巴里の名所」なところには、以前この街を訪れた際に足を運んでみたのですが、コンコルド広場に立つのは、はじめてです。大きな観覧車と「クレオパトラの針」と呼ばれるルクソールのオベリスクが印象的。巴里のオベリスクは19世紀初頭、エジプトとスーダンを統治していたムハンマド・アリーから贈られたそうです。この場所、コンコルド広場は、かのフランス革命の際にルイ16世やマリー・アントワネット女王が処刑された場であったという…。



コンコルド広場から、三角屋根とコリント式列柱が印象的なマドレーヌ寺院を眺めて。

 
そしてコンコルド広場の隣はジュー・ド・ポーム(球戯場)。えっ、あの、国民議会を締め出された第三身分の議員が集まったあのジュー・ド・ポームですか? ジュー・ド・ポームの誓い。雨降る中、議場を締め出されても、我々は屈しない…母国フランスの圧倒的大多数の国民、平民身分を代表する議員なのだから…!
 
 と、思わず「ベルばら」の世界に瞬間移動してしまったのですが、フランス革命において重要な役割を果たしたジュー・ド・ポームはベルサイユ宮殿のそばの、別の球戯場だったのですね。そうかそうか。
 
マドレーヌ広場からサントノレ通りを歩きました。高級ブティックが並ぶ…ものの、あまり高級ブティックには興味がないので「そうかそうか」と言いながら通り過ぎます。しかし空気が悪い。排気ガスでしょうか、「臭いがする」くらい、空気が悪いのです。帰ったらうがいをしよう、と思いながら歩くこと十数分。ああよかった、やっと見つけた! このお店を探していたのです!


 
アスティエ・ドゥ・ヴィラット。紐育や東京にも輸入販売しているお店がありますが、割れ物を輸入するための手間もあるのでしょうか、なかなか手の出ないお値段なのです。巴里でも高いかもしれないけれど、とりあえず覗いてみよう。そんな気持ちで入ってみました。
 

 
やっぱり素敵! ここの陶器は薄く硬質な質感ながら、手作りっぽさがあたたかくて、ひとつひとつ少しずつ違う感じも好ましい。店の奥にはもうひとつ部屋があって、美しいお皿たちが並んでいます。割れものに囲まれているので、思わずそろそろ歩いてしまう。
 

 
表の部屋と奥の部屋をつなぐ細い廊下からちょこんと入る小さな部屋に、印象的な猫たちがいました。「Setsuko」コレクション、と書いてある。セツコ…。なぜ日本人女性の名前なの? と聞いてみたら、「これは、日本人のアーティストの名前なのです」



ああ、もちろん! それは、バルテュス画伯夫人、節子さんとアスティエが協力して作ったシリーズなのでした。(道理で、猫の気配に見覚えがあると思った。)

美しいお皿を連れて帰りたかったけれど、紐育のわがアパートは、キッチンもひとりサイズ。なので、手のひらに乗るような小さなボウルと小皿をふたつ、買いました。さすが本店。お値段もなんとか手の届く価格でしたよ。

 
サントノレ通りを歩いたら少し疲れてしまったので、セーヌ河を眺めながらひとやすみすることにしました。地下鉄に乗って、サン・ルイ島へ。巴里の真ん中を流れるセーヌ河のそのまんなか、ちょうど巴里の「おへそ」(ちょっと右寄り)にあたるところに、ふたつの島があります。西側のやや大きな島は、ノートルダム大聖堂のあるシテ島。左側のやや小さな島は、サン・ルイ島。目指すのは、このサン・ルイ島にあるアイスクリーム屋さん、ベルティヨン
 
ケーキよりはお酒という辛党のわたしですが、アイスクリームはなぜか好きで…なかでも、ベルティヨンのアイスクリームは、世界でいちばんおいしいと思っています。米国のアイスクリームはクッキーやナッツ、チョコレートなど歯触り舌触りの違う混ぜものが多いのですが、アイスクリームはシンプルに、ひとつのフレーバーを楽しむのが好きです。ベルティヨンのアイスクリームはいまでもサン・ルイ島のお店の地下で作っている、というだけあって、フレッシュでシンプル。小さめのスクープで掬うところも、たくさんは食べられない身としてはありがたい。


左はクリームベースのアイスクリーム、右はソルベ。
塩キャラメル、ヌガー風味のチョコレート、「クレオール」というのはラムレーズンのアイスクリーム。ほろ苦チョコレートのソルベや、薔薇の香りの木苺のソルベもあります。

 
あれこれ迷ったのですが、マロングラッセと「高知の柚子」のふたつを選びました。
っていうか、「高知の、柚子」! がんばれぇ〜、となぜか声をかけたくなってしまう。

「高知の柚子」はソルベではなくフローズンヨーグルト仕立て。爽やかながらも適度にまろやかで、歩き疲れた身体も心もすぅっと軽くなるよう。

 

ふたつでもこんなに小さめだから、食べやすい。お値段はふたつで4.5ユーロとなかなかですが、食べてみると素材がフレッシュなんだな、と思うすっきりとした味わい。

 
セーヌ川の向こう岸では、結婚式らしきふたりが...。
どうぞ、お幸せに!



 
「巴里は移動祝祭日だ」と云ったヘミングウェイの言葉を思い出しながら、まだまだもう少し、気ままな巴里の旅を続けます。


 
author : watanabe-yo
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巴里だより その一

【2016.04.08 Friday
21:51
巴里に来ています。最後に欧州を訪れたのは、2009年に独逸に住む友だちを訪ねてベルリンからドレスデンに旅して以来です。そして、その後は休暇といえば日本に帰郷していたから、ひとりでふらっと旅に出るのはほんとうに久しぶりです。
 
まずはセーヌ河に挨拶したくて、サンジェルマン・デプレの教会前を横切って北へ歩きました。空が、広い! 建物の高さに制限が課されており、背の高い建物が少ないので、流れゆく雲の形も街の風景の一部をなしています。
 

 
巴里は、やはり息をのむほど美しい。いま自分が住んでいる街、紐育はとても住みやすくてこよなく愛しているのだけれど、紐育は摩天楼の街ですからね。「摩天楼」と書くと素敵だけれど、実際のところは鋼鉄とコンクリートの森。建物は(エンパイアステートやクライスラーなど数少ないランドマークを除いては)直線で作られています。
 
一方、巴里は、蝸牛のようにまあるい街区のなかを、街路が迷路のように曲がりくねったり斜めに交差したりして街を形づくっている。現在の巴里の原型は、19世紀末のオスマン氏の巴里市街大改革に基づいて造られたようです。一世紀かそれ以上前に遡る石造りの建物の屋根は台形に傾斜し、てっぺんには褪せた橙色の煙突たちが並ぶ。円い窓もよくみかけます。街そのものが美しすぎて、歩いていても立ち止まり、建物を見つめてしまうこともしばしば。パリのアパルトマンの屋根に傾斜が付けられているのは、通りに日光が届くようにとの配慮からなのだとか。
 
(註:建物の高さ制限については、最近新しい動きがありました。1973年に建てられたモンパルナスのタワーがあまりに周囲の外観とそぐわず評判が悪かったため、そのあと急いで作られた法律により建物の高さは37メートルまで、と決められていました。けれども2010年になって、居住用の建物は50メートル、商業用の建物は180メートルの高さまでOK、というふうに規制が緩和されたのです。結果、閑静な住宅街である15地区に現在、ホテルやレストランを含めた高層ビルが建築されているとのこと。この街の美しさが損なわれないよう祈るばかりです…。)
 
 
巴里の街並みをはじめて見たのは、ウジェーヌ・アジェという19世紀の写真家の写真を通して、でした。高校生のとき、東京都目黒区の庭園美術館で開催していたアジェの写真展を見に行ったのがきっかけです。セピア色の写真。曲線の美しい街並み。それ以来、アジェの写真が大好きになって、いまに至るまで写真集を買い集めています。(アジェばかり、十数点の写真集を持っています。)


"Cour du Dragon" par Eugene Atget.
ドラゴン小路を後ろから撮影したもの、のよう。

ある時、アジェの写真を眺めていて、「あれっ」と思った通りがありました。なんというのだろう、石畳の道の上に曲線を描いた渡り廊下みたいなものがあって。「ドラゴン小路(cour du Dragon)という通りの名前が、ずっと頭に残っていました。
 

ドラゴン小路。いまではこの渡り廊下のような部分は残っていません。


今回の旅では、この街に住む友人が小さなアパルトマンのことを教えてくれ、その部屋の持ち主にお願いして滞在させてもらうことになりました。住所はなんと「ドラゴン通り(rue du Dragon)」。アジェが巴里を撮影していた当時は、まさにオスマン氏による巴里市街大改革の真っ只中でしたから、そのあたりで「小路」が「通り」に整理されたのでしょう。ずっと頭の片隅にあった「ドラゴン通り」に滞在することになって、不思議な偶然にも少しわくわくしています。巴里の街には、そんな小さな偶然がところどころに転がっているような気もします。
 
巴里を最後に訪れたのは、離婚をして、再び独身になったお祝いに訪れたときでした。(この本にその時のエピソードを書きました。) あの時は右岸のサクレ・クール寺院や、バスチーユの辺りに滞在して、主に右岸を散策していました。今回滞在するドラゴン通りは左岸のサンジェルマン・デプレにあるので、あまりよく知らなかった左岸をゆっくり散歩して過ごそうと思います。
 
そういえば、わが父、椎名誠がはじめて出かけた「海外」は、巴里でした。椎名誠というと、アウトドアや「海岸で焚き火、釣り」のイメージが強いと思いますが、当時の彼はサラリーマンで、デパート関連の業界紙を作っていました。(そのあたりの話は、確かこちらの本に書いてあったと思います。)当時はまだ隆盛だった三越が巴里に支店を開くというので、その取材に来たのでした。父がまだ二十代のころの話です。


これは、左岸の老舗デパートそばの公園。この街に出張していた父も、こんな公園でひとやすみしたことあったかな?


ボン・マルシェという左岸の老舗デパートの店内を見て歩きながら思い出したのは、父がそのはじめての海外旅で、フランスの「フライパン」を買ってきた、ということ。こどもの頃はよくわかりませんでしたが、随分重いおみやげを買ったのだなあ。もしかしたら、その頃の日本のフライパンよりも、どっしりとした重いフランスのフライパンで美味しい料理ができるだろう、そんな思いで買ったのかもしれません。父自身、結婚する前には東京のイタリア料理店でアルバイトをしながら、深夜に出る賄いのごはんを玉ねぎのみじん切りと一緒に炒めて食べた、そんな思い出を綴っています。(確かに、厚いフライパンで料理をすると、カリッと美味しくきつね色に焼けますよね。)
 
小さい頃、日曜日には母がよくクレープを焼いてくれたのですが、あれは父が巴里で買ったフライパンを使って焼いてくれたのかな? 食べ盛りのこどもふたりが食卓で待ち構えるなか、一枚一枚時間の手間のかかるクレープを何枚も焼いてくれた母に改めて頭が下がります…。
 
話が「現在の巴里」から「昔の東京」にそれてしまいましたが、「現在の巴里」に戻りましょう。


 
ユーロが高いのであまり買い物をしないように、と自戒しているのですが、左岸にあるル・ボン・マルシェという老舗デパートは面白いから見に行ってごらん、と勧めてもらったので訪ねてみました。広めに空間をとった店の配置や、やはり巴里ならではのファッションは目のご馳走ですね! 
 
洋服は「見るだけ、見るだけ…」と唱えて美術館よろしく鑑賞しましたが、食器売り場でひとつ、買い物をしました。赤い木製の柄の、携帯ナイフです。サヴォア地方のオピネル社のもの。職人のためのナイフとして売られていたら、その切れ味と使いやすさが評判を呼び、ピカソも彫刻をするときにオピネル社のナイフを使っていたそうです。
 

オピネル社のナイフと、マスタードのセット。自分用です(笑
左から、サフラン風味、はちみつ入りカレー風味、そしてトリュフ風味。


ボン・マルシェでは、一階の食品売り場も楽しい。エスカレータを降りてすぐの調味料売り場では珍しいものがいろいろで、ここではマスタードを買いました。だって、サフラン入りや、パスティス(茴香の香りのする南仏のお酒。ブイヤベースの香りづけにも使うそう)入りのマスタード、なんて珍しいものがあるのだもの! 

その横にあったヨーグルト売り場で密かにコーフンしてしまった。フランスのヨーグルトにはなぜか昔から弱いのです。なんだろう、瓶入りで可愛いからかなあ。




あれこれ悩んだ末、キャラメル風味と、全乳のプレーンタイプを買いました。でも、黄色いミラベルというすもも入りとか、木いちごとか、美味しそうなのがいろいろあるのでまた通ってしまいそうです。


午後はゆっくり、あてもなく、左岸の街を歩きました。



ふと見つけた「傘」の看板。どんな傘を売っているんだろう...



婦人用の傘屋さんでした。ベル・エポックの香りがするわ...




車が一台、やっと通れるような狭い道。このあたりは作家や編集者など文化人も多い地域だとか。さりげなく書店もちらほら。



 
さて今日はどこを歩きましょうか。ずっと昔、はじめて巴里を訪れたときに「きほん」の観光名所には行ってみたので、今回は足の向くまま、ところどころで休みながら、ただ街を「呼吸」してみる旅にしようと思います。
 
author : watanabe-yo
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桜をあとに

【2016.04.03 Sunday
21:51
桜の季節の日本で長い春休みをすごし、太平洋を横断して、米国東海岸へ向かう機内でこの手紙をしたためています。
 

 
こんなに長い休暇はいつ以来だろう。
日本に帰郷するときはいつも、限られた貴重な時間の中でどんなひとに会えるか、楽しみにしています。両親や弟家族とすごす時間はやはり最優先。幼かったころは、「いつも、みんな一緒」にいるのだと当たり前のように思っていたけれど。育った家を巣立ってみると、家族とすごす時間の有り難さは…掌にのせた桜の花びらのようです。物理的時間は容赦なくすぎていくけれど、心が受け取る「じかん」はせめて永遠に胸に刻もう…と思うばかり。

 
帰国するたびに会うともだちもいれば、今回の帰国時にはじめて対面したともだちもいるし、ずっと前に知り合ってから長い年月を経て再会したともだちもいました。会いたいと思いながら会えないひとも多いけれど、東京の街を歩きながら、「どうしているかな」と、ふと記憶が目の裏をよぎることも。生まれ育った土地にたまに帰郷するばかりの旅人には、そんな記憶も旅のごちそうだったりします。
 
「帰郷」

「帰国」


人生ってどう展開および転回するかわからないから、必ず、ということは言えないけれど、いまの自分にとって、「自分が住み、働き、生きる街」はニューヨークです。そういう意味では、ニューヨークに戻るといつも「ただいま」と思う。でも、自分が生まれ育った街、いまも親が暮らす街、東京にも「帰る」感覚はあって。「帰郷」や「帰国」という言葉は、切なく愛おしい感情を喚起させながらも、どこか、空を揺れるぶらんこのような「宙吊り」感をもって響いてきます。
 
もしかしたら、「帰るところ」という具体的な記憶や手応えをもつ概念に、「国」という抽象的な、直感的にはどうもピンとこない概念を重ねてしまう習慣に無理があるのかな?

 


 
長いこと訪ねたいと思っていた韓国訪問も叶いました。韓国への留学経験をもつ、日本で生まれ育った韓国籍の友人が寛大にも案内役を引き受けてくれたおかげで、短い旅のなかでもいろいろな韓国の表情に触れることができました。

 
驚いたのは、ソウルの街には日本語を話せるひとが多いこと。タクシーやお店など、経済的な便益が関係する場合だけでなく、地下鉄の駅やサウナ浴場のお客どうしなど、経済的な便益が関係ない場所においても、快く助けてくれたり、気軽に「どうしました」と声をかけてくれたりするひとに何人も出会いました。
 

おいしいものにもたくさん出会いましたよ。


韓国と日本の歴史を、自分は恥ずかしいほど知らないけれど、戦前の日本の半島支配や、関東大震災時のデマによって在日の韓国・朝鮮出身のひとびとに対する暴行や虐殺が行われたことなどは知っています。たまたま生まれついた「国」の同胞のひとびとが行った行為を後世の個々人が背負う「べき」かどうかは考えてしまうけれど、かといって「自分は関係ない」とは言えない。或る種、集合的に「受け継ぐ」責任といったものはあるのでは、と思います。そうでないと、アンフェアな状態が連鎖して負の遺産だけが残り、全体的に前に進むことができないもの。

(喩えれば、現代の米国に生きる個々人は南部の「奴隷制」を行ったわけではない。けれど、人種差別による不平等を是正していく責任は、社会全体、特にマジョリティである差別を受けない側が積極的に果たしていくべきである、というのに似ています。)


そんなこともあって、今回、韓国で出会ったひとびとがわだかまりもなくごくふつうに優しく助けてくれたことに、嬉しく驚いていました。
 

 
いちばん印象に残っているのは、景福宮。ソウル市内にある14世紀、李氏王朝の王宮跡です。山を背にした丘に建てられ、墨色の瓦を葺いた石塀に囲まれた古の王宮。ゆったりとしたおおらかな雰囲気が漂う優雅な建築物です。濠に囲まれた大きな高床式の御殿では、遠来の客をもてなす宴が開かれたとか。醤を入れた大きな甕の並ぶ一角は高い塀に囲まれ、美味しく醗酵した醤の大切さを物語っています。


飴色に光る木の床の廊下を、どんな美しい衣装をまとったひとびとが歩いたことだろう。その衣装は、この国のどこかで、誰かが凍えた手を温めながら織り、仕立てたものだっただろうか。夏の夜、ひとびとはこの王宮の一角で空を眺めただろうか。冬の朝、政(まつりごと)に伴う様々な駆け引きに血相変えたこともあっただろうか
…。


 

これは王宮の傍に展示された、昔の民家。チマチョゴリを着た女の子たちがひとやすみしていました。(彼女たちは日本語を話していましたよ。観光客が時代ものの衣装を着るの、見ていて楽しいね)


 
景福宮を出たあと、友人と「小腹が空いたね」と歩いていたら、なんだかいい感じの民家風の佇まいが…。
 

 
覗いてみると、くりくりした黒い目の女のひとが韓国語で話しかけてくる。

「れすとらん?」
と、とりあえずカタカナをひらがなにしたようなたどたどしさで聞いてみる我々。(韓国語を話せる友人は用事があって別行動していたので、韓国語の喋れないふたりで行動していたのでした。)

「ねー」

どうやらそうらしい。


「おーぷん?」

「ねー」 と、中の女性。
そうよ、どうぞいらっしゃい、と言ってくれているらしい。


日本語の「はい」は、韓国語では「ねー」というのですね。日本語の「エ」よりも少しだけ口を丸く開いたような感じの、おおらかな響きの言葉。言うひとも、聞くひとも、なんとなく笑顔になります。

通された部屋は窓から明るい光がふんだんに入り、壁には手作りらしい継ぎ布と刺繍の作品がかかっている。お箸(チョッカラ、という)は手に優しい黒い木のお箸。スプーン(スッカラ、という)は、少し金色がかった柔らかな白銀で、いい感じです。

席に着くと、銀色のコップにはいったお水と一緒に、湯気をあげているふかし芋が出されました。

「あぺたいざー」と、お店の女性。

これはまた素朴な前菜だなあ、と思いながら食べてみると、ほっこり、ねっとり美味しいふかし芋。実は芋類はあまり得意ではないのですが、これは美味しくてつい食べてしまう。

あれよあれよと言う間に、ひとくちサイズの三種のチヂミ、香ばしいにおいのチェプチェ、新鮮な野菜のナムルなどが並びはじめ




小さなお皿で出てくるし、ひとつひとつが美味しいし、「わぁ、これは美味しい」「これも美味しい!」と歓声をあげつつ、気がつくと我々の目の前には14種のお料理が並んでいたのでした。小腹どころかお腹がいっぱいになってしまったけれど、ここで食べたチェプチェはいままで食べた中でもいちばんのチャプチェでした。

 
韓国語を喋れる友人と合流してからは、他にも毎日、豊かで美味しいごはんをいただきました。(いろいろ写真をTwitterに掲載したので、よかったら見てね)

 
料理や言葉は日本のそれとは違うけれど、ニューヨークに暮らす者の観点からは、日本と韓国の往復の中では「異国にいる感じがしない」と強く感じていました。ソウル市内でも、明洞という一角はまるで新宿東口みたいだし、カロスギルという一角は青山か表参道のよう。異なる肌の色や髪の色が常に視界にあるニューヨークと違って、目に入るひとびとの風貌もよく似ているし。

大雑把な言い方だけれど、太平洋を越えた米国東海岸に視座の起点を移してみると、日本や韓国にいたら目に付く「差異」は「ほとんど同じ」に見えるのです。あはは…。


 

 
そしてまた、おおらかな空気の漂う美しい景福宮の真ん中に、瓦葺きの優雅な王宮づくりとは明らかに趣を異にする「朝鮮総督府」が置かれていたことを後から知って、驚きました。現在の韓国を日本が支配していた日帝時代のことです。喩えて言えば、皇居の真ん中に、あるいはベルサイユ宮殿の真ん中に、他の国が、様式もまるで違う、威圧的な、支配のための「監視所」をどかんと置くようなもの…。

(景福宮の真ん中に建てられた日本政府の「朝鮮総督府」は現在は撤去されていますが、その様子はこの写真展から見て取れます。でも、写真からは、ことの異様さが伝わらないかも...。現在の復元された景福宮に行ってみてから朝鮮総督府の写真を見ると、びっくりしますよ...。)

 

いま、日本で生まれ育つ世代が直接手を下したことではないにせよ、自分がこうした事実を知らなかったことに衝撃を受けました。同行した友人も知らなかったと言っていたし、歴史は好きな科目だったけれど、朝鮮半島支配についてはほとんど学んだ記憶がありません。


歴史的事実の解釈や責任の所在云々という議論の前に、自分が生まれ育った国と隣国諸国との歴史における客観的事実は、知っておいた方が実践的(practical)だし合理的(reasonable)だと思う。解釈がどうあれ、過去に起こったことについて少なくとも事実関係において共通の土台となる認識を持たなければ、意義ある形で現在の関係を築くこともできないから。(でないと、相互の認識の違いを再確認するところから話し合いを始めなければならず、「前置き」のところで議論がこんがらがって、お互いに有意義な話し合いができなくなってしまう。)

 
 
韓国から戻ってから、崔昌華(チョエ・チャンホア)という、在日韓国人牧師の伝記を読みました。この方の数奇で激しく、理想と情熱に満ちた生き方については、この本を読んでいただくのがいちばんだと思います。けれどもわたし自身、自分が生まれ育った日本という国のこと、戦前・戦後にどんなことが行われていたか、こんなにも知らなかった、ということに驚きました。

日本と韓国の関係について、また韓国・朝鮮出身の祖先をもち日本に生まれたいわゆる「在日」の方々の直面しておられる労苦や問題について、自らの言葉で語れるほどの知識をわたしは持ち合わせていないのだけれど、知らないことがまだたくさんあるのだ、と改めて思いました。

(ちなみに、今回、韓国へは友人ふたりと一緒の三人旅行だったのですが、三人とも日本で生まれ育ちながら、パスポートは日本、韓国、米国と三者三様だったのです。)

 
 
ひとは、「国」というものを、どう捉えるのが、よいのだろう? 

それはひとそれぞれに違うのだろうとも思うけれど、自ら好んで「国」と自分を重ね合わせるひとはともかく、自らがそういった「国」とのつきあいかたを選ぶわけではないのに、「国」という概念の縛りによって辛い生き方を強いられるとしたら、それは本来、望ましい「ひと」と「国」との関係なのだろうか。

 

わたしが米国に渡ったのも、日本とは成り立ちや構成の違う土地で暮らすことで、「国」という概念の内容と有効性についてもっと知り、考えたいと思ったことも、動機のひとつでした。自分自身、生まれ育ったのは日本だけれど、もう「わたしは日本人です」とは言わない。「日本で生まれました」と言います。

 

 
日本という、自分が生まれ、育ち、いまも家族が住む国。
東京という、よく知っているようで、もうあまり知らない、懐かしさと新しさの混在する街。


米国という、自分が選んで渡り、そこでこそ活きるキャリアを築き、暮らす国。
ニューヨークという、そこにいるだけで「ここにいてよかった」と思える、大好きな街。


そんな土地を行ったり来たりしながら、今回は韓国という、日本とよく似た(と、自分には思える)国を訪ね、いまのところ、やっぱり、こう思う。


「ひと」は「ひと」。
どの国のひとだからこう、という決まった図式はない。



「帰るところ」は、きっと、具体的な地名である必要はないんだ。それはきっと「会いたいひと」がいる場所であり、自分の芯のところが「ほっ」とできる場所であり。
 

桜の季節には桜のモチーフが溢れること、実をいうと少し「うーん、おなかいっぱいだな」という感じもときどき抱いてしまうのです。ワカルカナ? 


といいながらも、太平洋の上を飛びながら、桜の咲く姿あれこれが脳裏をよぎっています。

こどものころ、小学校の校庭に咲いていた桜。

高校のころ、この季節になると毎日歩いた、隣接する大学の桜並木。

今回の帰国中、三月初めはまだ寒くて、タクシーの中から見た赤坂御所の夜桜。

日本を出発する前日、中野通りの手前で、どこかの校庭を彩っていた満開の桜。


その時々で、自分は変わっていく。ともに時刻(とき)を過ごすひとたちも。思うことも。「あなた」と「わたし」、「きみ」と「ぼく」のあいだに、流れるものも。


それでも変わりゆく流れゆく年月のなか、桜が咲くころ、あの花を見ると、自分のなかに還ってくるものがある。「おかえり」と「ただいま」を両方言いたいような感じがする。桜をあとに、桜を胸に、海の向こうの街へ「帰り」ます。
 

また、アジアにも「帰る」ね。今度はどんな季節に、会えるかな?


 
author : watanabe-yo
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旅の途中に。

【2016.03.03 Thursday
21:07

司法試験が終わりました。結果はまだ先にならないと判りません。
でもね、今回は、どうかなあ。全力を出せれば射程内だと思う、というところまでは来た。でも、その全力が出せなかったのです。試合って「慣れ」もある。はじめてのことが重なって、生まれてはじめてというほど酷い、吐き気を伴う頭痛にも悩まされたりして、自分でも判るミスをしてしまった。できた部分もあるけれど、できなかった部分もある。そして、たぶん、全部できていないと、今回は難しいんじゃないかな。


自宅で毎日勉強しながら、数日に一度は少し外を歩く。自律と抑制の毎日。
そういう毎日も、実は、好きだったりする。


 
ニューヨーク州の試験の厳しさは想像以上でした。厳しい要素はいろいろあるのだけれど、そのひとつは試験科目の多さです。しかも、ロースクールで必須の項目(憲法とか刑法、契約法など)の試験ならよいのですが、よほど興味がなければ履修しないような州に特化した法についてもかなり細かく学び、小論文が書けるレベルまで法を熟知しなければならないのです。現在いろいろ司法試験の制度が変わっている最中なのですが、自分が受けた時点でニューヨーク州では合計20余の法律分野の細かな知識が要求されました。


これ、他の州では全然違うのです。お隣のニュージャージー州は基本の7科目(憲法、契約法、財産法、不法行為法、刑法、刑事訴訟手続、民事訴訟手続)だけ。小論文の難易度もはるかに優しい。でもなぜか受験料は3倍以上の高さ。なぜだ…。


試験準備コースの参考書と自分で付け足して使っていた参考書たち。
要点をまとめる「アウトライン」を教科ごとに作ります。
勉強中はお風呂にも、ベッドの中にもこれを持ち込んで、起きている時間のすべてを使っていた。


 
試験会場は巨大な室内競技場で、陸上競技のフィールドの中(!)に、どわーっと机が並び、あらかじめ割り振られた席で受験します。プラスチックの椅子が固くてお尻が痛かった。持ち物にもとても厳しくて、バッグや携帯電話の持ち込みは厳禁。本やノートも厳禁。持って入ってよいものは、2Bの鉛筆、消しゴム、アナログの腕時計、包み紙から出して透明な袋に小分けしたスナック(飴とかドライフルーツとか。でも包み紙に入っていたらだめ)、水のボトル(あらかじめラベルをはがして何も書いてない状態にしたもの)、薬。これらを、1リットル入りの透明ジップロック袋に入れて持ち込みます。


ティッシュを持っていっていいのか問い合わせたら「ダメ」。なんでも、ティッシュに何か書いて持ち込もうとしたひとがいたとか…。でもそんな付け焼刃で対応できるような情報量じゃないのですが...。


お昼は買いに行っている時間なんてないし、作っている余裕もないから、前の日にサンドイッチを買って、これもやはり包み紙をはがしてラップで包みなおして持って行きました。昼休み中は机の並ぶフィールド内は立ち入り禁止になるので、ぐるりと囲む観客席で、自分たちの「戦場」を眺めながらもそもそとサンドイッチを頬張る…。贅沢を言っている暇はないのです。


試験内容は、種類も範囲も難易度も州によって違いますが、ニューヨーク州の場合は四部構成になっています。


1)全国共通の(といっても、この試験を使うかどうかは各州が決める)四択問題、6時間。科目は憲法、契約法、財産法、不法行為法、刑法、刑事訴訟手続、民事訴訟手続、証拠法。これはかなり細かく難しい。 200問を6時間で解くので、一問につき費やせる時間は145秒程度。数段落に及ぶ長文の問題もあるので読み直す時間はほとんどなく、確実に細部まで読みこなし、引っかけ問題多発の選択問題をこなしていかなければなりません。ネイティブでも時間が足りなくなるひともいます。

2)ニューヨーク州に特化した選択問題、1時間。これもかなり細かいところを突いてくるし、上述のように学校では学んだことのないような細かなところまで聞かれます

3)ニューヨーク州に特化した小論文5題、各45分。出題内容は基本7科目に加え、信託、遺産相続、家族法、担保取引、代理人、複数州にまたがる事件の場合の準拠法、会社法、無過失保険法、州民事訴訟手続法、パートナーシップ、などなど…。

4)架空の法律や判例をその場で与えられ、限られた時間内にリーガルメモや最終弁論などを書き上げる問題解決能力を見る試験。これはMPT(Multiple Performance Test)と呼ばれ、90分。  



きちんと作ったアウトラインに愛着と誇りを感じたりして...。


ニューヨーク州の場合は州に特化した選択問題と小論文、MPTを初日に受けて、二日目に四択問題200問を受けます。
 

自分は普段はプレッシャーに強いのですが、はじめての経験(特に試験関係にちょっと弱い)にはあがってしまうことがあり、今回はそれに加えていままで経験したことのない頭痛と吐き気に悩まされてしまいました。でも、緊張していたのは自分だけではないかも。会場内で会った同じ大学院出身のベン君は「もう27時間寝てないんだ」と呆然としていたし、やはり同じ大学院出身のジ・ユンちゃんは「わたし、昨日2時間おきに目が覚めてた」と言っていたし。
 

会場内にはプロクターと呼ばれる試験官が何人もいて、受験者から出席証明の署名を集めたり問題集を配ったり、不審な行動をする者がいないか目を光らせています。試験問題は開始時間まで絶対に開封してはいけない。でもやはり緊張していたのでしょう、試験前に開封してしまったひとがいて、そのひとはラップトップコンピューターを取り上げられ、手書き回答を義務付けられていました。
 

ちなみにラップトップコンピューターはあらかじめ専用のソフトウェアを入れておきます。会場に入ったらノート類は一切開いてはいけない。すぐに専用ソフトウェアを立ち上げて、試験が終わるまでコンピューターを机から動かしてもいけない。


すべての試験が終わって、嬉しいかなって思ったら、嬉しくはなかった。ただ、真っ白でした。

 

さて、今回はそんなわけで自分の結果は芳しくないんじゃないかな…と予測しているのですが、実は、あまり悲壮な心持ちではないのです。そりゃ一回で受かりたいけど、全力出せなかったのだから仕方がないもの。また受けるしかない。




 
これは、旅の途中だから。旅に「結果」はない。「経過」があるのみ。
でもさ、結果を出すことより、どうしたらいいか考えて、そのためにがんばる、そのことの経過のほうが、ほんとうは楽しいし、好きだな。


自分にとって、弁護士
に「なる」というのは目的ではないのです。それは手段にすぎないし、「夢」ではない。自分の見たい未来はもっとずっと先にあって、それはいま地上に与えられた人生のなかでは、たぶん叶えることはできないけど、もし思いが波及するなら。もし自分にできることをできるだけする、そんな「布石」を打つことができるなら。


試験2日目に見た夜明け。


これまで生きてきたなかでも、いろんな旅をしてきました。生まれ育った国と街を離れて、両親と離れて、ニューヨークという土地に自分の生きる場所を見つけたこと。演劇も、ものを書くということも、法廷やさまざまな司法の場で翻訳をしたり通訳をしたり、司法案件のチームをまとめるプロジェクトマネージャーをしたことも。外側から見たらいろんな違う仕事をしてきたように見えるかもしれないけれど、実は繋がっていて、同じ夢を追うためのその時々に「するべきこと」をしてきたにすぎないのです。


見たい未来は、もっとひとびとがお互いにわかりあえる世界。ヒト科以外の、しっぽや翼や鱗のあるヒトビトも安心して生きていけるような世界。出し抜きあったり誰かを利用することより、みんなが、みんなと、わかちあったりわかりあったりするために、自分にできることをしたい。何をしたら貢献できるだろう? 


法律には実は全然興味がなかったのだけれど、米国の司法制度を知って、それで興味を持ちました。英米の法体系と日本や欧州の法体系との大きな違いは、英米法の柔軟さです。それは、制定法だけでなく判例が法的拘束力を持ち得るからなのだけれど、それだけ書いてもわかりづらいかもしれませんね。説明しようとするとあまりにも長大な文章になってしまうから割愛するけれど、少なくとも自分の目に映った米国の法体系は、「石に穿った大昔の法典みたい」と思っていた日本の法律よりもずっとダイナミックで、人間的で、面白いものだったのです。混沌を極める世界にあって、法というのは、ひとびとがなんらかの秩序や公平さをもたらそうとする絶え間ない努力なのだ。そう思ったら、もっときちんと勉強してみたくなったのです。


自分がいま法律の専門家になったとて、それで地球が救えるなんて錯覚はもちろんないけれど、でもたとえば誰か困っているひとを助けるには法律のことを知っていて、実際に助言ができるほうがいい。愛する「ヒト科以外のヒトビト」のために、たとえば仕事の傍ら何か無料で法律関係のボランティアができるかもしれないし、自分自身がきちんと生活できる基盤を築けば、環境のために募金したいと考えたときもきちんと貢献することができる。
 

うまく伝わるかなあ。もっと美しい文章を書きたいのだけれど、今回は話の内容も堅いので少しぎこちないですね。ごめん。


 
そんなこんなで、いまは少し宙ぶらりん。三ヶ月、毎日、週末も返上、好きなお酒も一切断って勉強してきたから、今月はそんな日常から離れる旅の月です。まずは家族のもとへ帰って、少し「ひとりでがんばる葉之輔君」にお休みをあげよう。


日本は生まれ育った国だけれど、人生の半分くらいは別の土地で生きているから、自分にとってはどんどん異国のようになりつつあります。それと、馴染みのない東京の風景を見ながら、「目に見える」風景の向こう側に、いつか見た時間の向こうの風景を見ている自分がいる。東京を歩くと、身体は「いま」の東京を歩いているのだけれど、心は「いつか」に旅している。
 
なかなか厳しかった冬を越えて、次の旅に出るまでのポケットのような日本の旅。桜にも会えるかな? いつかみた笑顔や、まだ見ぬ笑顔にも会えるかな?

 
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渡辺 葉
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