Living | 葉的MANHATTAN☆HOUR
はじめまして、2017年

【2017.01.02 Monday 15:15

2017年が明けました。「おめでとう」と書く前に少しためらっている自分がいます。それは昨年11月の米国大統領選挙における不幸な結果(これについては後述します)や、世界で台頭している不寛容なメンタリティのせいなのだけれど…
「おめでとう」って言葉にふさわしい年になるといいな。


自分は75億人の世界市民の、75億分の1にすぎない。でも75億分の1がひとりひとり明日から喫煙を始めたら世界中は煙で煙くてたまらなくなるし、あるいはひとりひとりがゴミを拾うようにしたら世界中の道路はきっと綺麗になる。75億分の1「だけ」って考えたら非力に思えるかもしれないけど、それでも自分は世界の「一部」なのであって、「傍観者」じゃない。自分だって、世界を変える力になれる。うん、
「おめでとう」って言葉にふさわしい年にしよう!!


<私的2016年>
時間とは、心の中で起こるものである。
4世紀の宗教家、ヒッポのアウグスティヌスはそう考えたそうです。例えば「万物を創造した、神」と口に出していうとき、「万物」という言葉を発している時間は、「神」という言葉を発している時間より長い。と、思いますよね? でも実際には自分の口は一つで、同時に二つの言葉を発しているわけじゃない。それに「ば・ん・ぶ・つ」の「つ」を言い終わる頃には、前の音節、「ば」も「ん」も「ぶ」も宇宙のどこかに消えている。音を、それを発していた時間をつなぎとめておけるわけじゃない。


これは『ザ・ニューヨーカー』誌のAlan Burdick氏の記事で読んだことですが、「時間の感覚は心理的なもの」というのは、誰にもうなずける経験があるのでは? 誰かや何かを待っている時の「長い」時間や、好きな人と過ごす時間の「短さ」。逆に言えば、その時間を「長い」と感じるか「短い」と感じるかによって、自分のその時の有り様を振り返ることもできそうですね。
2016年は、自分にとっては長くもあり短くもあり。確実に言えるのは「てんこ盛り」の一年でした…。


2016年の1月は家にこもって毎日、司法試験準備。朝6時前に起床して、顔を洗うのもそこそこにすぐ勉強を始め、夜12時過ぎに就寝。頭がフル回転しているのであまり眠くはなかったのですが、身体のコンディショニングを考え、メラトニンという副作用のないサプリを少量摂取して頭と身体を休めるようにしていました。


2月末にニューヨーク州とニュージャージー州の司法試験。心おもむくままいろいろなものに挑戦してきた人生とはいえ、やはり一番の試練と思えました…。(もし落ちたらまた挑戦するだけ、とは思っていましたが。)


試験後はとにかく頭を切り替えたくて、ほぼ一ヶ月日本へ。在日コリアンの友人が親切にも一緒に行ってくれたおかげで初の韓国訪問も叶いました。米国在住の目から見るとソウルの街って日本とそんなに変わらなくて、やっぱり近い「兄弟姉妹」な関係なんだなと思いました。(ところで「同じ親から生まれたこどもたち」って日本語では性別や年齢を意識しないと表現できないけれど、英語ではsiblingという年齢にも性別にもニュートラルな言葉があります。そういう言葉が日本語にもあったらいいのにな〜と時々思います。余談。)

4月にはもうちょっと遊んでおきたくて、十年ぶりにフランスへ。パリの左岸をぶらぶら散歩したり、友人が途中から加わって、二人でブルターニュへ旅したり。目の前に海が広がるホテルのバルコニーで、暗闇のなか押し寄せる波の白い波頭を眺めながら、ワインを飲みながら、夜遅くまでおしゃべりしていました。この旅は「飛ぶ時間」のように過ぎて行ったけれど、でも、ある意味、この旅の中で自分が通り過ぎた時間は「永遠」に心の中に刻まれていると思う…。

(フランス旅の話は、途中までこのブログに書いたけれど、ブルターニュ旅のことは書いていませんでした。今年は旅の思い出話しも書けるといいなあ。)

ニューヨークに戻り、4月末に司法試験合格の報せが。これまでの数年間も司法関係の仕事をしてきたのですが、これでやっと弁護士としての就職活動開始です。知人の薦めもあってある事務所に応募。面接までにすごい時間がかかり、8月から仕事始め決定。
ただ(詳述は避けますが)入ってみて「あ、違う」と感じたので、別の事務所に移ろうと考え始めました。とはいえ物事は「自分の時間」で進むとは限らない。心はやる場合は特にそうですね。漸く11月初旬に新職場からオファーがあり、移ることができました。新職場で一ヶ月余働いてみて、現在のところは「これでよかった」と思います。ただ、仕事の内容はもっと挑戦が欲しい、もっと難しい仕事がしたい…。


とはいえ、日々いただく仕事は頭を使える仕事だし、夢中になって思わず残業ということもしばしば。仕事をただ当面のために「こなす」のではなく、その案件全体という文脈や、社会という文脈、また自分がこの惑星で与えられた時間という文脈の中で意義あるものと捉えながら結実させていきたい、と考えています。


<米国の2016年と、これから>
2016年の米国大統領選挙。英国の欧州連合離脱に続いて「まさか」の出来事でした。

(ぎゃ〜っ! まさかこんなことになるとは!!)

 

ただ、大統領選挙の結果は、現行の方式を知ってみると疑問も多いのです。最大の疑問は「選挙人」制度の、現行のやり方。「おかしい」「当初の目的から外れている」という声が米国内でも上がっているので、変わっていくといいけど(でも現行方式は共和党だけに有利なので彼らは死守するだろう…フェアネスも何もあったものではない。)
ざっくり説明すると、大統領選挙は直接選挙ではない。(でも投票用紙には各党からの候補者の名前が書いてあるのでそれにマークをつけるのですが。)


基本は、各州で、その州に割り当てられた下院議員の数と上院議員の数の合計数の「選挙人」を選びます。でもこれらの選挙人は我々投票者が選ぶのではありません。政党の党大会など一般にはよく見えないプロセスで、選挙民の票と無関係に選ばれているのです。合衆国憲法第二条で「各州に選挙人をおく」ことを定めてはいますが、各政党が選ぶなんて一言も書かれていません。各州の自治に任されています。各政党が選ぶようになったのは、19世紀になってからの話。ある種の妥協の産物なのです。各州での選び方はまちまちで、有権者からは目に見えないところで、二党制政治の内部で、有権者の知らない選挙人が選ばれています。
選挙人の人数も実は変。合衆国憲法では、各州の選挙人の数は、各州の下院議員の人数と上院議員の人数を足したもの、となっています。下院議員の人数は「ある程度」その州の人口に基づいている(でも完全に人口比に比例して決められているわけではない)のですが、上院議員はどの州も二人と決まっています。なので、人口の少ない州に異常に有利というわけ。有権者一人の「一票の重み」を比べてみると、例えば、過疎化しているワイオミング州民の一票の重さは、人口の多いカリフォルニア州民の一票の3.6倍の威力を持っています。合衆国全体への経済貢献度では、カリフォルニアの方がはるかに貢献しているのにも関わらず。ニューヨーク、ロサンジェルス、シカゴ、ボストン、サンフランシスコなど大都市のある地域には様々な背景を持つ人々が集まるためリベラルな気風が強く民主党支持者が多いのですが、中西部には西部開拓時代に住み着いた白人コミュニティがずっと残っていて、そういう層は伝統的に共和党支持者が多いのが現状です。人口の少ない州の方が不均衡に「多くの」選挙人を持つことができるので、国民の一票の重みが過疎地に有利なように歪められています。


なぜ米国憲法はそんな制度を作ったのか? 現行の合衆国憲法制定は1787年。まだ独立して間もない、そして各州がバラバラに自治をしていた頃に「建国の父」と言われた代表たちが会議を繰り返し、英国の力や欧州列強の介入の陰に怯えながら、奴隷経済に頼っていた南部と、奴隷制を非人道的だと考える北部の対立の中で試行錯誤のプロセスの中で作られたのが現行の憲法でした。それまでの世界にはなかった「民が選ぶ」代表という考え方、専制君主の台頭を妨げるために考え出した議会と大統領府、司法の三権分立など素晴らしい仕組みが出来上がったものの、現代のように人々がいろんな候補者の意見を聞く手段などありませんでした。情報も教育も、今のように多くの人の手に届くものではなかったのです。人口の多い州の州民が「身内びいき」をしないように、地域のミクロな便益ではなく国としてのマクロな便益を代表する人を選ぶよう、ある程度マクロな視点で見られるような選挙人に票を託す…そんな狙いがあった作られたもので、「その州で一票でも多く票を得た候補者に、その州の選挙人の票を全部入れる」なんて、憲法には一言も書かれていないし、二党制の妥協として各州で採用している現在のやり方を認める最高裁判断もありません(判断の領域として難しいものなのでそもそも最高裁は審理を避けるタイプの問題とも言えます)。


思わず選挙人制度について細かく語ってしまいましたが…。トランプの人となりからは、典型的な「ナルシシスト」、それもかなり幼児的な類の自己愛と承認要求から抜け出していない様子が見て取れます。トランプが「当選」して以来、人種を筆頭とするいろんな差別や、それを動機とした暴力事件がこのニューヨークでさえも多発しているし、白人優位主義者の集まりで黒人を肌の色だけでリンチし、殺したりしたKKKという極悪組織がトランプ支持を表明したりしているし。
肌の色が違うこと、見た目が違うこと、生まれた場所が違うこと、信じる宗教が違うこと、、違うことを理由に誰かを排除する、そんな世界にしたくない。


<自分らしくいるために>
そんな折、ある新聞の「相談コーナー」にこんなやりとりが載っていました。

(以下、抄訳)
質問:自分は性別を変えたいというほどではないのですが、女性的な男です。女性のように振る舞う男についてどう思いますか? 時々、自分は神様に愛されていないのかな、変わらなきゃいけないのかなと思うのです…今のこんな自分が自然な自分なのに。


答え:もし変わるべきと助言するとしたら、理由はただ一つ。変わらないことで貴方自身が辛い思いをする場合です。例えば、化粧をしていて、それを理由に誰かにしょっちゅう殴られる、とか。どうぞ安全でいてください。自分の身を守るために。
でも、他の人に気に入られるために変えようと思うなら、そんなの必要ないですよ。世界は、典型的に女性っぽいとされる振る舞いをする男性や、典型的に男性っぽいとされる振る舞いをする女性を必要としているんです。なぜかって? そういう人たちは我々みんなに、みんなも、本当の自分自身といういろんな可能性を生きてもいいんじゃないかって気づかせてくれるからです。
きみのような人は、社会のヒーローなんですよ。「ひと」として生きることがどんなことか、典型なんかを超えて、より豊かな気づきと理解へ、我々を導いてくれるからです。
わたしがこどもの頃、学校で「適正テスト」がありました。内容は男女同じです。でもテスト結果に基づく推薦は、男子は青い紙、女子はピンクの紙に書いてありました。我々男子には医者やエンジニア、パイロット、弁護士、科学者などワクワクするような可能性が書いてありました。でも女の子たちには、三つの可能性のどれか、しかありませんでした。看護婦、秘書、学校の先生です。同じテストを受けていても、女子には可能性が開かれていないと、1970年代のカリフォルニア州では考えられていたんです。
我が若い友人よ。きみは、こんな風に長いこと人々が固執してきた、ひとを貶めるような、残酷でいやらしいステレオタイプを乗り越えて我々みんなを自由と可能性へ導いてくれる大きな流れの一部なんです。それぞれのひととしての自由という翼を生やすことで、我々みんなやこどもたちにもより良い未来を作る動きを担っているんです。きみがきみらしくある、そんな勇気を持つこと。それだけできみは、どんな振る舞いだって、考え方だって、自然に湧きおこる感覚だって、「男性的」「女性的」とどちらかに振り分けきれない、どんなものにも女性性と男性性の両方が含まれていると、教えてくれているんですよ。
そんな気づきをくれるから、わたしや他の正気なひとたちはきみやきみのようなひとがいてくれてありがたい、と思うんです。神様がきみを好きかどうかなんて心配しなくていいんですよ。だって、聖書によれば神はアダムとイブの両方を自分のイメージの中で作り上げたと書いてありますよね。つまり、神様はきみを好きなだけじゃない、きみがいて本当に素晴らしいと喜んでいると思いますよ。神が彼だろうが彼女だろうが、それ以外にどう感じているでしょう?
美しい豊かな色彩で絵を描いたら、それを白と黒の世界に押し込めたいですか? そんなことありませんよね。豊かな色彩で輝いて欲しい、そう思うでしょう。
(以上、抄訳でした)


さまざまな色を含むからこそ空は美しい。自由な心で、自分らしくいるってことを、「違う」からこそ素晴らしいのだということを、この惑星に居られるうちに、もっと知り、分かち合っていきたいな。

author : watanabe-yo
| Living | comments(2) |

巴里だより その三 市場へ

【2016.04.25 Monday 13:05
 楽しかった欧州の旅を終え、マンハッタンへ戻りました。長い春休みも終わり。でもフランス旅のおみやげ話をもう少し、続けましょう。
 
*  *  *
 
巴里の日曜日。忘れていたけど、欧州では日曜日には多くのお店が休みになるのでした。今回滞在しているサンジェルマン・デ・プレの界隈も、平日と打って変わってひっそり。でもね、にぎやかな一角がありました。それは「マルシェ」、市場!
 
市場、を示すフランス語marchéと、英語のmarketはどちらも、「売り買い」を意味するラテン語のmerxから来ているそうです。
 
ちなみに、英語では値段が「高い」はexpensive、「安い」はcheapと、それぞれ一語で表現できますよね。でも、フランス語では「高い」=cher(シェール)という言葉はあっても、「安い」を示す一語の単語はないのです。では、お財布にやさしい値段のことを、フランス語ではどう表現するのか?

 
ひとつには、pas cher(パ・シェール)。「高くない」、という意味です。

でもね、それよりもっと好きだなって思う言葉は、bon marché(ボン・マルシェ)。「マルシェ」は名詞では「市場」だけど、bon marché(ボン・マルシェ)といえば「良い買いもの」、つまり「お買い得」という意味になります。「安い」じゃなくて「良い買いもの」…言葉の違いといってしまえばそれまでだけれど、フランス語の好きなところは、こういうところ。少し詩ごころがあると思いませんか?
 
さてさて、言葉の世界に少し寄り道をしてしまいました。巴里の市場に戻りましょう。
 
* * *
 
日曜日の朝、まず訪ねたのは、ラスパイユ通りのビオ・マルシェ。「ビオ」というのは「ビオロジック」の略。英語でいえばオーガニック、つまり「有機栽培」という意味です。有機栽培の野菜や果物、薬物を使わずに飼育した牛や山羊のミルクでつくったチーズ、有機小麦やその他の穀物を使ったパン。はちみつやジャム。
 

 
ああ、なんて豊かな! 赤く熟した小さなトマト、新鮮な葉っぱたち、小さな丸い山羊乳のチーズ。かりかりっという音が聞こえてきそうな、こんがり焼けたパン。
 
でもね、うっとりしながらも、ひったくりやスリには気をつけないと。斜めがけの小さなバッグにさりげなく片手を添えつつ歩きます。面白いもので、たとえばニューヨークにいると、相手が英語を話していようが、別の言語を話していようが、肌の色が何色だろうが、ニューヨーカーかどうか、気配で判ります。逆にいうと、巴里ではアジア系でも、服装や気配で「このひとはパリジェンヌ(またはパリジャン)だな」というのもわかるし、おそらく自分は「観光客です」という看板を背負っているふうに見えるはず。なので、いつもより少し気をつけないと…「怯えながら歩く」という意味ではなくて、ただ、前後左右は意識しながら歩くよう心がけていました。
 
さて、ビオのマルシェでは、濃い赤と緑のシマシマが美しいトマトと、熟れた木苺、それからイチジクと木の実が入ったパンを買いました。「わぁ〜」と思いながらあれこれ見て帰ろうと思ったら、美味しそうな匂いが…。
 
野菜のタルトレットのお店、店先でジャガイモと玉ねぎをすりおろしチーズを混ぜたパンケーキを焼いていて、そこから漂う匂いなのでした。

「トマトのタルトをひとつと、そのジャガイモのパンケーキをください」 フランス語で伝えたのですが、店主はこちらを見ると
「ニホンジンデスカ?」(←ニホンゴ)
 
無表情に言われたので、驚き、ちょっと臆してしまって写真撮影はお願いできませんでした。日本からの訪問客が多いのだろうなあ。でも笑顔なし(嫌な表情でもありませんでしたが。単に無表情でした)で言われると、ちょっと複雑(あはは…。だって、わたしはニホンジンじゃないかもしれない。日本育ちの韓国朝鮮籍かもしれないし、中国籍かもしれないし、日系米国人かもしれないし、アジア系のミックスかもしれないでしょ? それに「国籍」ってそもそも人為的なものだし、「何人」だってどうだっていいじゃん。)
 
 しかしそれはともかく、ひとつ買って、はふはふ言いながら齧る。
 

 
店主の意図は知りませんが(ただ単に表情があまりないひとなのかもしれない)、パンケーキは美味しかったです。ラスパイユのビオ・マルシェに行ったら食べてみる価値あり!
 
さて、ひとまず借りているアパルトマンに戻って、木苺やトマトを置いて、身軽になってからまた、街に出ました。お次は「蚤の市」、marché aux pucesを訪ねます。
 
* * *
 
まず行ってみたのは、巴里の南端、ヴァンヴの蚤の市。アパルトマンに誰かが残していったガイドブックによれば、比較的小規模で回りやすい、とのこと。サン・ジェルマン・デ・プレからは、地下鉄で十数分です。駅で降りたらすぐ判るかなと思ったら、下調べが足りなすぎてよくわからず、目の前にあった果物屋のお兄さんに聞いてみました。サリーちゃんのパパ(←昭和世代にはワカル)によく似た、濃い口ひげが印象的な方でした。

「すみません、蚤の市を探しているんですが、どちらに行けばいいのでしょう?」と尋ねると、お兄さんは

「ぬわはははは!!! $$%+#&@**!!」

えええ? $$%+#&@**…ってなんだろう。ちゃんと聞き取れなくてポカーンとしていると、

「わからんかー、ぬわははは! 左だよ! 左にいってまっすぐ!」

なんだったんだろう、からかわれたような気もするけど、厭な感じではなかったからヨシとしよう。果物屋のお兄さんの指差す方向に歩いてみると、ちゃんとありました。
 

 
今回は特に何かを探しているわけではないので、ぶらぶらと歩いてみました。街路樹のある道沿いの青空市で、確かに歩きやすいし安全なのですが、極私的印象としては…少し物足りないかなあ。市場との出会いは、その時々の気分やタイミングもありますね。



ヴァンヴでは、こんな方がひとりでトットットット...と歩いて、市場の見張りをしていましたよ。


 
…ヨシ、ワカッタ。では市場をハシゴしよう!
巴里の蚤の市、といえばクリニャンクール。世界最大規模の蚤の市、とも言われています。数年前に一度行ったことがあるので、ここなら迷わず辿り着けるはず…。とはいえ、いま巴里の北東部は治安がよくないと言われているので、妙な気配を感じたらすぐに引き返そう。そう思いながら、地下鉄で北上しました。
 


巴里のメトロの駅は、こんな感じ。ニュヨークと比べると、地下鉄の車両が短くてびっくり!
駅はニューヨークの地下鉄よりもずっと清潔で、運行間隔も短く、4分くらいで次の電車が来る、という印象でした。



もうひとつ、感心したのはこれ。ニューヨークの地下鉄にも、ひとびとが掴まるための縦棒があるのですが、一本だけなので「スペース争い」あるいは「譲り合い」をしないとみんな掴まることができません。巴里の地下鉄はこんなふうに三叉になっているので、周囲に立っているひとがみんな掴まることができる。極めて合理的!

 
さて、確かに、地下鉄が北にゆくにつれて、車内のひとびとの気配は少し変わっていきます。ニューヨークも地域によってはこんな感じ。少し周囲を意識しつつ(かつ、怖がってはいない感を出すのも大事…あはは、忙しいな)、4番メトロ北の最終地点、「クリニャンクール門」(Porte de Clignancourt)駅へ。
 
 
クリニャンクールの蚤の市は、地下鉄の駅を出てから少し歩きます。
ここは自分の土地勘を信用して歩いたけれど、はじめて行かれる方は事前に通りの名前など頭に入れていったほうがいいかも。駅のそばではサングラスやら時計やらを手に売ろうとする商売人がいっぱいいるし、若干荒っぽい雰囲気なので、この手の「場」に慣れていない場合は十分気をつけてくださいね。(正直いうとフランス語か、せめて英語がしゃべれるほうが安心です。)


駅から蚤の市に行く途中の道では、まったく別の市場が展開されています。売られているのは、Tシャツとか、サングラスとか、廉価な腕時計など。この「別市」を通り過ぎてどんどん行くと、いよいよクリニャンクールの蚤の市です。


上から、
「メトロ、クリニャンクール門」
「アンティカ市場」
「マラシス市場」
「ミシュレ通り」
「蚤の市情報」
「ポール・ベール市場」
「ラントルポ市場」
「ロジエ市場」
「セルペット市場」
 
「クリニャンクールの蚤の市」と一口にいっても、実は幾つかの独立した市場が集まった集合体なのです。屋外に小さな小屋が並ぶ市場もあれば、屋内市場もある。家具屋さんが並ぶ市場もあれば、シャネルやエルメスなど高級ブランドのヴィンテージが並ぶ市場も。

 




家具市場の店先で懸命に見張りをしていたヒト。


もうひとつの家具市場でも、こんなヒトが熱心に店番をしていました。


でもいちばんのおすすめは、迷路のようにくねくねした路地の両脇にヴィンテージの食器や洋服のお店が並ぶ、ヴェルネゾンの市場。メトロの駅から歩いてきて、最初に出会う市場なので、見つけやすいと思います。


ヴェルネゾン市場の路地はこんなふう。細い道の両側にお店が並んでいます。


昼下がりに訪れたせいか、午後の陽を浴びながらくつろぐお店の人の姿も...。



お皿とか、把手とか。「これはなんだろう?」と首をかしげるモノとか。



ああ。これぞ「巴里の蚤の市」という感じ!



我が家にスペースがあったら、こんなお茶セットや、グラスのセットをお迎えしたいものです。



ヴィンテージの洋服やさん。ボーイッシュな女の子が着たら似合いそう! 



こちらは軍の帽子。おかあさんに手を引かれた7〜8歳くらいの子が、「ママ、あれは警察のひとの帽子だよね?」と(欲しい)感全開にしながら見つめていました。


いちばん惹かれてしまったのはこのお店! 眺めているだけで楽しい。
どのポットもすてき! 

 
古いスパイス用の缶を買おうかなって一瞬思ったけれど、マンハッタンのわがアパートは狭くて場所も限られているので今回は断念。いつか、また来るときまで
 
* * *

これぞ巴里の蚤の市! という雰囲気を満喫しての帰り道。
 
メトロの構内に降りて停まっていた地下鉄に乗って数分…。あれ、なかなか発車しないな、と思ったら、アナウンスがありました。全部を聞き取って理解することはできなかったけれど、「手前の駅で怪しい荷物発見」、「警察が来るまでに時間がかかる」、「切符をすでに買ったひとは*&+?*J%*」(←ここ、聞き取れなかった)

念のため、横にいたひとにも聞いてみました。
 
「すみません、英語は話せますか? いまのアナウンス、半分くらいはわかったのですが、わたしはフランス語をあまりよく話せないので…」
 
男性と女性のふたりでしたが、英語が得意というわけではなさそう。でも、親切に教えてくれました。どうやら、わたしが聞き取れた部分(上記)はやはりその通りで、この電車が発車するにはまだ時間がかかるらしい、とのこと。
 
しばらく待ってから、上記のふたりは出て行ってしまいました。まだ車内で発車を待っているひとたちもいたから自分も待ってみたけれど、再度アナウンスがあり、やはり「いつ発車するかは予測できない」とのこと。とは言っても、この駅に乗り入れている地下鉄は4番のみなので、どうすればいいのか。プラットフォームに出てみたら、車掌さんか駅員さんらしきひとを数人が囲んで尋ねているようだったので、そばにいって聞き耳を立ててみました。「このバスに乗ればいい」と、ふたつほどバス路線を教えてもらったので、ひとまず再び地上へ。
 
ところが。バス停に行ってみると、案の定、メトロに乗るのをあきらめたひとたちが殺到していました。これはちょっと怖いし、自分のフランス語は小学生程度なので、何かあってもうまく対処できないかもしれない。
ドル安ユーロ高なので節約できる交通費は節約したかったけれど、土地勘が覚束ないところでは安全一番です。やってきたタクシーに飛び乗りました。運転手さん相手に、「何か怪しいものが見つかったらしくて、メトロが走っていないんです」と報告。
 
実をいうと、米国での暮らしではフランス語を話す機会がほとんどないので、できるだけおしゃべりしてみたくて。「フランス語はあまり上手にしゃべれなくてごめんなさい。でも美しい言語だから大好きなんです」とお断りしてから話してみると、たいていのひとは優しくおしゃべり相手になってくれます。

巴里の北から中心部に行く街並みを眺めながら、十数分のドライブ。地下鉄やバスと比べたらお金はかかってしまったけれど、安全と安心、それに思いがけない市内観光も買ったと思えば、まあよしとしましょう。
 
もう少し散歩したくて、セーヌ河の真ん中のサン・ルイ島でタクシーを降りました。ここは観光名所なので、浅草のように観光客ワンサカ(笑)。自分も観光客なので、むしろちょっとホッとしたり…。
 



サン・ルイ島とシテ島をつなぐ橋は、週末になると大道芸人の舞台になります。
こちらのお兄さんたちは出番を待って小休止。ボーダーのTシャツと赤いネッカチーフがお洒落なので思わずパチリ。
 
* * *

巴里の市場のはなし、少し長くなってしまいましたね。おつきあいくださってありがとうございます。おみやげばなし、まだ続きますよ…


 
author : watanabe-yo
| Living | comments(5) |

巴里だより その二

【2016.04.11 Monday 06:15
街を歩いていくと河に出る、というのはいいものですね。巴里は街の真ん中にセーヌ河が流れています。今回は左岸に滞在しているので、右岸に足を運んでみました。
 

左は大観覧車、右は3000年昔に作られ、エジプトからフランスに運ばれた、ルクソール王朝のオベリスク。

 
エッフェル塔やルーブル美術館など「ザ・巴里の名所」なところには、以前この街を訪れた際に足を運んでみたのですが、コンコルド広場に立つのは、はじめてです。大きな観覧車と「クレオパトラの針」と呼ばれるルクソールのオベリスクが印象的。巴里のオベリスクは19世紀初頭、エジプトとスーダンを統治していたムハンマド・アリーから贈られたそうです。この場所、コンコルド広場は、かのフランス革命の際にルイ16世やマリー・アントワネット女王が処刑された場であったという…。



コンコルド広場から、三角屋根とコリント式列柱が印象的なマドレーヌ寺院を眺めて。

 
そしてコンコルド広場の隣はジュー・ド・ポーム(球戯場)。えっ、あの、国民議会を締め出された第三身分の議員が集まったあのジュー・ド・ポームですか? ジュー・ド・ポームの誓い。雨降る中、議場を締め出されても、我々は屈しない…母国フランスの圧倒的大多数の国民、平民身分を代表する議員なのだから…!
 
 と、思わず「ベルばら」の世界に瞬間移動してしまったのですが、フランス革命において重要な役割を果たしたジュー・ド・ポームはベルサイユ宮殿のそばの、別の球戯場だったのですね。そうかそうか。
 
マドレーヌ広場からサントノレ通りを歩きました。高級ブティックが並ぶ…ものの、あまり高級ブティックには興味がないので「そうかそうか」と言いながら通り過ぎます。しかし空気が悪い。排気ガスでしょうか、「臭いがする」くらい、空気が悪いのです。帰ったらうがいをしよう、と思いながら歩くこと十数分。ああよかった、やっと見つけた! このお店を探していたのです!


 
アスティエ・ドゥ・ヴィラット。紐育や東京にも輸入販売しているお店がありますが、割れ物を輸入するための手間もあるのでしょうか、なかなか手の出ないお値段なのです。巴里でも高いかもしれないけれど、とりあえず覗いてみよう。そんな気持ちで入ってみました。
 

 
やっぱり素敵! ここの陶器は薄く硬質な質感ながら、手作りっぽさがあたたかくて、ひとつひとつ少しずつ違う感じも好ましい。店の奥にはもうひとつ部屋があって、美しいお皿たちが並んでいます。割れものに囲まれているので、思わずそろそろ歩いてしまう。
 

 
表の部屋と奥の部屋をつなぐ細い廊下からちょこんと入る小さな部屋に、印象的な猫たちがいました。「Setsuko」コレクション、と書いてある。セツコ…。なぜ日本人女性の名前なの? と聞いてみたら、「これは、日本人のアーティストの名前なのです」



ああ、もちろん! それは、バルテュス画伯夫人、節子さんとアスティエが協力して作ったシリーズなのでした。(道理で、猫の気配に見覚えがあると思った。)

美しいお皿を連れて帰りたかったけれど、紐育のわがアパートは、キッチンもひとりサイズ。なので、手のひらに乗るような小さなボウルと小皿をふたつ、買いました。さすが本店。お値段もなんとか手の届く価格でしたよ。

 
サントノレ通りを歩いたら少し疲れてしまったので、セーヌ河を眺めながらひとやすみすることにしました。地下鉄に乗って、サン・ルイ島へ。巴里の真ん中を流れるセーヌ河のそのまんなか、ちょうど巴里の「おへそ」(ちょっと右寄り)にあたるところに、ふたつの島があります。西側のやや大きな島は、ノートルダム大聖堂のあるシテ島。左側のやや小さな島は、サン・ルイ島。目指すのは、このサン・ルイ島にあるアイスクリーム屋さん、ベルティヨン
 
ケーキよりはお酒という辛党のわたしですが、アイスクリームはなぜか好きで…なかでも、ベルティヨンのアイスクリームは、世界でいちばんおいしいと思っています。米国のアイスクリームはクッキーやナッツ、チョコレートなど歯触り舌触りの違う混ぜものが多いのですが、アイスクリームはシンプルに、ひとつのフレーバーを楽しむのが好きです。ベルティヨンのアイスクリームはいまでもサン・ルイ島のお店の地下で作っている、というだけあって、フレッシュでシンプル。小さめのスクープで掬うところも、たくさんは食べられない身としてはありがたい。


左はクリームベースのアイスクリーム、右はソルベ。
塩キャラメル、ヌガー風味のチョコレート、「クレオール」というのはラムレーズンのアイスクリーム。ほろ苦チョコレートのソルベや、薔薇の香りの木苺のソルベもあります。

 
あれこれ迷ったのですが、マロングラッセと「高知の柚子」のふたつを選びました。
っていうか、「高知の、柚子」! がんばれぇ〜、となぜか声をかけたくなってしまう。

「高知の柚子」はソルベではなくフローズンヨーグルト仕立て。爽やかながらも適度にまろやかで、歩き疲れた身体も心もすぅっと軽くなるよう。

 

ふたつでもこんなに小さめだから、食べやすい。お値段はふたつで4.5ユーロとなかなかですが、食べてみると素材がフレッシュなんだな、と思うすっきりとした味わい。

 
セーヌ川の向こう岸では、結婚式らしきふたりが...。
どうぞ、お幸せに!



 
「巴里は移動祝祭日だ」と云ったヘミングウェイの言葉を思い出しながら、まだまだもう少し、気ままな巴里の旅を続けます。


 
author : watanabe-yo
| Living | comments(4) |

巴里だより その一

【2016.04.08 Friday 21:51
巴里に来ています。最後に欧州を訪れたのは、2009年に独逸に住む友だちを訪ねてベルリンからドレスデンに旅して以来です。そして、その後は休暇といえば日本に帰郷していたから、ひとりでふらっと旅に出るのはほんとうに久しぶりです。
 
まずはセーヌ河に挨拶したくて、サンジェルマン・デプレの教会前を横切って北へ歩きました。空が、広い! 建物の高さに制限が課されており、背の高い建物が少ないので、流れゆく雲の形も街の風景の一部をなしています。
 

 
巴里は、やはり息をのむほど美しい。いま自分が住んでいる街、紐育はとても住みやすくてこよなく愛しているのだけれど、紐育は摩天楼の街ですからね。「摩天楼」と書くと素敵だけれど、実際のところは鋼鉄とコンクリートの森。建物は(エンパイアステートやクライスラーなど数少ないランドマークを除いては)直線で作られています。
 
一方、巴里は、蝸牛のようにまあるい街区のなかを、街路が迷路のように曲がりくねったり斜めに交差したりして街を形づくっている。現在の巴里の原型は、19世紀末のオスマン氏の巴里市街大改革に基づいて造られたようです。一世紀かそれ以上前に遡る石造りの建物の屋根は台形に傾斜し、てっぺんには褪せた橙色の煙突たちが並ぶ。円い窓もよくみかけます。街そのものが美しすぎて、歩いていても立ち止まり、建物を見つめてしまうこともしばしば。パリのアパルトマンの屋根に傾斜が付けられているのは、通りに日光が届くようにとの配慮からなのだとか。
 
(註:建物の高さ制限については、最近新しい動きがありました。1973年に建てられたモンパルナスのタワーがあまりに周囲の外観とそぐわず評判が悪かったため、そのあと急いで作られた法律により建物の高さは37メートルまで、と決められていました。けれども2010年になって、居住用の建物は50メートル、商業用の建物は180メートルの高さまでOK、というふうに規制が緩和されたのです。結果、閑静な住宅街である15地区に現在、ホテルやレストランを含めた高層ビルが建築されているとのこと。この街の美しさが損なわれないよう祈るばかりです…。)
 
 
巴里の街並みをはじめて見たのは、ウジェーヌ・アジェという19世紀の写真家の写真を通して、でした。高校生のとき、東京都目黒区の庭園美術館で開催していたアジェの写真展を見に行ったのがきっかけです。セピア色の写真。曲線の美しい街並み。それ以来、アジェの写真が大好きになって、いまに至るまで写真集を買い集めています。(アジェばかり、十数点の写真集を持っています。)


"Cour du Dragon" par Eugene Atget.
ドラゴン小路を後ろから撮影したもの、のよう。

ある時、アジェの写真を眺めていて、「あれっ」と思った通りがありました。なんというのだろう、石畳の道の上に曲線を描いた渡り廊下みたいなものがあって。「ドラゴン小路(cour du Dragon)という通りの名前が、ずっと頭に残っていました。
 

ドラゴン小路。いまではこの渡り廊下のような部分は残っていません。


今回の旅では、この街に住む友人が小さなアパルトマンのことを教えてくれ、その部屋の持ち主にお願いして滞在させてもらうことになりました。住所はなんと「ドラゴン通り(rue du Dragon)」。アジェが巴里を撮影していた当時は、まさにオスマン氏による巴里市街大改革の真っ只中でしたから、そのあたりで「小路」が「通り」に整理されたのでしょう。ずっと頭の片隅にあった「ドラゴン通り」に滞在することになって、不思議な偶然にも少しわくわくしています。巴里の街には、そんな小さな偶然がところどころに転がっているような気もします。
 
巴里を最後に訪れたのは、離婚をして、再び独身になったお祝いに訪れたときでした。(この本にその時のエピソードを書きました。) あの時は右岸のサクレ・クール寺院や、バスチーユの辺りに滞在して、主に右岸を散策していました。今回滞在するドラゴン通りは左岸のサンジェルマン・デプレにあるので、あまりよく知らなかった左岸をゆっくり散歩して過ごそうと思います。
 
そういえば、わが父、椎名誠がはじめて出かけた「海外」は、巴里でした。椎名誠というと、アウトドアや「海岸で焚き火、釣り」のイメージが強いと思いますが、当時の彼はサラリーマンで、デパート関連の業界紙を作っていました。(そのあたりの話は、確かこちらの本に書いてあったと思います。)当時はまだ隆盛だった三越が巴里に支店を開くというので、その取材に来たのでした。父がまだ二十代のころの話です。


これは、左岸の老舗デパートそばの公園。この街に出張していた父も、こんな公園でひとやすみしたことあったかな?


ボン・マルシェという左岸の老舗デパートの店内を見て歩きながら思い出したのは、父がそのはじめての海外旅で、フランスの「フライパン」を買ってきた、ということ。こどもの頃はよくわかりませんでしたが、随分重いおみやげを買ったのだなあ。もしかしたら、その頃の日本のフライパンよりも、どっしりとした重いフランスのフライパンで美味しい料理ができるだろう、そんな思いで買ったのかもしれません。父自身、結婚する前には東京のイタリア料理店でアルバイトをしながら、深夜に出る賄いのごはんを玉ねぎのみじん切りと一緒に炒めて食べた、そんな思い出を綴っています。(確かに、厚いフライパンで料理をすると、カリッと美味しくきつね色に焼けますよね。)
 
小さい頃、日曜日には母がよくクレープを焼いてくれたのですが、あれは父が巴里で買ったフライパンを使って焼いてくれたのかな? 食べ盛りのこどもふたりが食卓で待ち構えるなか、一枚一枚時間の手間のかかるクレープを何枚も焼いてくれた母に改めて頭が下がります…。
 
話が「現在の巴里」から「昔の東京」にそれてしまいましたが、「現在の巴里」に戻りましょう。


 
ユーロが高いのであまり買い物をしないように、と自戒しているのですが、左岸にあるル・ボン・マルシェという老舗デパートは面白いから見に行ってごらん、と勧めてもらったので訪ねてみました。広めに空間をとった店の配置や、やはり巴里ならではのファッションは目のご馳走ですね! 
 
洋服は「見るだけ、見るだけ…」と唱えて美術館よろしく鑑賞しましたが、食器売り場でひとつ、買い物をしました。赤い木製の柄の、携帯ナイフです。サヴォア地方のオピネル社のもの。職人のためのナイフとして売られていたら、その切れ味と使いやすさが評判を呼び、ピカソも彫刻をするときにオピネル社のナイフを使っていたそうです。
 

オピネル社のナイフと、マスタードのセット。自分用です(笑
左から、サフラン風味、はちみつ入りカレー風味、そしてトリュフ風味。


ボン・マルシェでは、一階の食品売り場も楽しい。エスカレータを降りてすぐの調味料売り場では珍しいものがいろいろで、ここではマスタードを買いました。だって、サフラン入りや、パスティス(茴香の香りのする南仏のお酒。ブイヤベースの香りづけにも使うそう)入りのマスタード、なんて珍しいものがあるのだもの! 

その横にあったヨーグルト売り場で密かにコーフンしてしまった。フランスのヨーグルトにはなぜか昔から弱いのです。なんだろう、瓶入りで可愛いからかなあ。




あれこれ悩んだ末、キャラメル風味と、全乳のプレーンタイプを買いました。でも、黄色いミラベルというすもも入りとか、木いちごとか、美味しそうなのがいろいろあるのでまた通ってしまいそうです。


午後はゆっくり、あてもなく、左岸の街を歩きました。



ふと見つけた「傘」の看板。どんな傘を売っているんだろう...



婦人用の傘屋さんでした。ベル・エポックの香りがするわ...




車が一台、やっと通れるような狭い道。このあたりは作家や編集者など文化人も多い地域だとか。さりげなく書店もちらほら。



 
さて今日はどこを歩きましょうか。ずっと昔、はじめて巴里を訪れたときに「きほん」の観光名所には行ってみたので、今回は足の向くまま、ところどころで休みながら、ただ街を「呼吸」してみる旅にしようと思います。
 
author : watanabe-yo
| Living | comments(3) |

桜をあとに

【2016.04.03 Sunday 21:51
桜の季節の日本で長い春休みをすごし、太平洋を横断して、米国東海岸へ向かう機内でこの手紙をしたためています。
 

 
こんなに長い休暇はいつ以来だろう。
日本に帰郷するときはいつも、限られた貴重な時間の中でどんなひとに会えるか、楽しみにしています。両親や弟家族とすごす時間はやはり最優先。幼かったころは、「いつも、みんな一緒」にいるのだと当たり前のように思っていたけれど。育った家を巣立ってみると、家族とすごす時間の有り難さは…掌にのせた桜の花びらのようです。物理的時間は容赦なくすぎていくけれど、心が受け取る「じかん」はせめて永遠に胸に刻もう…と思うばかり。

 
帰国するたびに会うともだちもいれば、今回の帰国時にはじめて対面したともだちもいるし、ずっと前に知り合ってから長い年月を経て再会したともだちもいました。会いたいと思いながら会えないひとも多いけれど、東京の街を歩きながら、「どうしているかな」と、ふと記憶が目の裏をよぎることも。生まれ育った土地にたまに帰郷するばかりの旅人には、そんな記憶も旅のごちそうだったりします。
 
「帰郷」

「帰国」


人生ってどう展開および転回するかわからないから、必ず、ということは言えないけれど、いまの自分にとって、「自分が住み、働き、生きる街」はニューヨークです。そういう意味では、ニューヨークに戻るといつも「ただいま」と思う。でも、自分が生まれ育った街、いまも親が暮らす街、東京にも「帰る」感覚はあって。「帰郷」や「帰国」という言葉は、切なく愛おしい感情を喚起させながらも、どこか、空を揺れるぶらんこのような「宙吊り」感をもって響いてきます。
 
もしかしたら、「帰るところ」という具体的な記憶や手応えをもつ概念に、「国」という抽象的な、直感的にはどうもピンとこない概念を重ねてしまう習慣に無理があるのかな?

 


 
長いこと訪ねたいと思っていた韓国訪問も叶いました。韓国への留学経験をもつ、日本で生まれ育った韓国籍の友人が寛大にも案内役を引き受けてくれたおかげで、短い旅のなかでもいろいろな韓国の表情に触れることができました。

 
驚いたのは、ソウルの街には日本語を話せるひとが多いこと。タクシーやお店など、経済的な便益が関係する場合だけでなく、地下鉄の駅やサウナ浴場のお客どうしなど、経済的な便益が関係ない場所においても、快く助けてくれたり、気軽に「どうしました」と声をかけてくれたりするひとに何人も出会いました。
 

おいしいものにもたくさん出会いましたよ。


韓国と日本の歴史を、自分は恥ずかしいほど知らないけれど、戦前の日本の半島支配や、関東大震災時のデマによって在日の韓国・朝鮮出身のひとびとに対する暴行や虐殺が行われたことなどは知っています。たまたま生まれついた「国」の同胞のひとびとが行った行為を後世の個々人が背負う「べき」かどうかは考えてしまうけれど、かといって「自分は関係ない」とは言えない。或る種、集合的に「受け継ぐ」責任といったものはあるのでは、と思います。そうでないと、アンフェアな状態が連鎖して負の遺産だけが残り、全体的に前に進むことができないもの。

(喩えれば、現代の米国に生きる個々人は南部の「奴隷制」を行ったわけではない。けれど、人種差別による不平等を是正していく責任は、社会全体、特にマジョリティである差別を受けない側が積極的に果たしていくべきである、というのに似ています。)


そんなこともあって、今回、韓国で出会ったひとびとがわだかまりもなくごくふつうに優しく助けてくれたことに、嬉しく驚いていました。
 

 
いちばん印象に残っているのは、景福宮。ソウル市内にある14世紀、李氏王朝の王宮跡です。山を背にした丘に建てられ、墨色の瓦を葺いた石塀に囲まれた古の王宮。ゆったりとしたおおらかな雰囲気が漂う優雅な建築物です。濠に囲まれた大きな高床式の御殿では、遠来の客をもてなす宴が開かれたとか。醤を入れた大きな甕の並ぶ一角は高い塀に囲まれ、美味しく醗酵した醤の大切さを物語っています。


飴色に光る木の床の廊下を、どんな美しい衣装をまとったひとびとが歩いたことだろう。その衣装は、この国のどこかで、誰かが凍えた手を温めながら織り、仕立てたものだっただろうか。夏の夜、ひとびとはこの王宮の一角で空を眺めただろうか。冬の朝、政(まつりごと)に伴う様々な駆け引きに血相変えたこともあっただろうか
…。


 

これは王宮の傍に展示された、昔の民家。チマチョゴリを着た女の子たちがひとやすみしていました。(彼女たちは日本語を話していましたよ。観光客が時代ものの衣装を着るの、見ていて楽しいね)


 
景福宮を出たあと、友人と「小腹が空いたね」と歩いていたら、なんだかいい感じの民家風の佇まいが…。
 

 
覗いてみると、くりくりした黒い目の女のひとが韓国語で話しかけてくる。

「れすとらん?」
と、とりあえずカタカナをひらがなにしたようなたどたどしさで聞いてみる我々。(韓国語を話せる友人は用事があって別行動していたので、韓国語の喋れないふたりで行動していたのでした。)

「ねー」

どうやらそうらしい。


「おーぷん?」

「ねー」 と、中の女性。
そうよ、どうぞいらっしゃい、と言ってくれているらしい。


日本語の「はい」は、韓国語では「ねー」というのですね。日本語の「エ」よりも少しだけ口を丸く開いたような感じの、おおらかな響きの言葉。言うひとも、聞くひとも、なんとなく笑顔になります。

通された部屋は窓から明るい光がふんだんに入り、壁には手作りらしい継ぎ布と刺繍の作品がかかっている。お箸(チョッカラ、という)は手に優しい黒い木のお箸。スプーン(スッカラ、という)は、少し金色がかった柔らかな白銀で、いい感じです。

席に着くと、銀色のコップにはいったお水と一緒に、湯気をあげているふかし芋が出されました。

「あぺたいざー」と、お店の女性。

これはまた素朴な前菜だなあ、と思いながら食べてみると、ほっこり、ねっとり美味しいふかし芋。実は芋類はあまり得意ではないのですが、これは美味しくてつい食べてしまう。

あれよあれよと言う間に、ひとくちサイズの三種のチヂミ、香ばしいにおいのチェプチェ、新鮮な野菜のナムルなどが並びはじめ




小さなお皿で出てくるし、ひとつひとつが美味しいし、「わぁ、これは美味しい」「これも美味しい!」と歓声をあげつつ、気がつくと我々の目の前には14種のお料理が並んでいたのでした。小腹どころかお腹がいっぱいになってしまったけれど、ここで食べたチェプチェはいままで食べた中でもいちばんのチャプチェでした。

 
韓国語を喋れる友人と合流してからは、他にも毎日、豊かで美味しいごはんをいただきました。(いろいろ写真をTwitterに掲載したので、よかったら見てね)

 
料理や言葉は日本のそれとは違うけれど、ニューヨークに暮らす者の観点からは、日本と韓国の往復の中では「異国にいる感じがしない」と強く感じていました。ソウル市内でも、明洞という一角はまるで新宿東口みたいだし、カロスギルという一角は青山か表参道のよう。異なる肌の色や髪の色が常に視界にあるニューヨークと違って、目に入るひとびとの風貌もよく似ているし。

大雑把な言い方だけれど、太平洋を越えた米国東海岸に視座の起点を移してみると、日本や韓国にいたら目に付く「差異」は「ほとんど同じ」に見えるのです。あはは…。


 

 
そしてまた、おおらかな空気の漂う美しい景福宮の真ん中に、瓦葺きの優雅な王宮づくりとは明らかに趣を異にする「朝鮮総督府」が置かれていたことを後から知って、驚きました。現在の韓国を日本が支配していた日帝時代のことです。喩えて言えば、皇居の真ん中に、あるいはベルサイユ宮殿の真ん中に、他の国が、様式もまるで違う、威圧的な、支配のための「監視所」をどかんと置くようなもの…。

(景福宮の真ん中に建てられた日本政府の「朝鮮総督府」は現在は撤去されていますが、その様子はこの写真展から見て取れます。でも、写真からは、ことの異様さが伝わらないかも...。現在の復元された景福宮に行ってみてから朝鮮総督府の写真を見ると、びっくりしますよ...。)

 

いま、日本で生まれ育つ世代が直接手を下したことではないにせよ、自分がこうした事実を知らなかったことに衝撃を受けました。同行した友人も知らなかったと言っていたし、歴史は好きな科目だったけれど、朝鮮半島支配についてはほとんど学んだ記憶がありません。


歴史的事実の解釈や責任の所在云々という議論の前に、自分が生まれ育った国と隣国諸国との歴史における客観的事実は、知っておいた方が実践的(practical)だし合理的(reasonable)だと思う。解釈がどうあれ、過去に起こったことについて少なくとも事実関係において共通の土台となる認識を持たなければ、意義ある形で現在の関係を築くこともできないから。(でないと、相互の認識の違いを再確認するところから話し合いを始めなければならず、「前置き」のところで議論がこんがらがって、お互いに有意義な話し合いができなくなってしまう。)

 
 
韓国から戻ってから、崔昌華(チョエ・チャンホア)という、在日韓国人牧師の伝記を読みました。この方の数奇で激しく、理想と情熱に満ちた生き方については、この本を読んでいただくのがいちばんだと思います。けれどもわたし自身、自分が生まれ育った日本という国のこと、戦前・戦後にどんなことが行われていたか、こんなにも知らなかった、ということに驚きました。

日本と韓国の関係について、また韓国・朝鮮出身の祖先をもち日本に生まれたいわゆる「在日」の方々の直面しておられる労苦や問題について、自らの言葉で語れるほどの知識をわたしは持ち合わせていないのだけれど、知らないことがまだたくさんあるのだ、と改めて思いました。

(ちなみに、今回、韓国へは友人ふたりと一緒の三人旅行だったのですが、三人とも日本で生まれ育ちながら、パスポートは日本、韓国、米国と三者三様だったのです。)

 
 
ひとは、「国」というものを、どう捉えるのが、よいのだろう? 

それはひとそれぞれに違うのだろうとも思うけれど、自ら好んで「国」と自分を重ね合わせるひとはともかく、自らがそういった「国」とのつきあいかたを選ぶわけではないのに、「国」という概念の縛りによって辛い生き方を強いられるとしたら、それは本来、望ましい「ひと」と「国」との関係なのだろうか。

 

わたしが米国に渡ったのも、日本とは成り立ちや構成の違う土地で暮らすことで、「国」という概念の内容と有効性についてもっと知り、考えたいと思ったことも、動機のひとつでした。自分自身、生まれ育ったのは日本だけれど、もう「わたしは日本人です」とは言わない。「日本で生まれました」と言います。

 

 
日本という、自分が生まれ、育ち、いまも家族が住む国。
東京という、よく知っているようで、もうあまり知らない、懐かしさと新しさの混在する街。


米国という、自分が選んで渡り、そこでこそ活きるキャリアを築き、暮らす国。
ニューヨークという、そこにいるだけで「ここにいてよかった」と思える、大好きな街。


そんな土地を行ったり来たりしながら、今回は韓国という、日本とよく似た(と、自分には思える)国を訪ね、いまのところ、やっぱり、こう思う。


「ひと」は「ひと」。
どの国のひとだからこう、という決まった図式はない。



「帰るところ」は、きっと、具体的な地名である必要はないんだ。それはきっと「会いたいひと」がいる場所であり、自分の芯のところが「ほっ」とできる場所であり。
 

桜の季節には桜のモチーフが溢れること、実をいうと少し「うーん、おなかいっぱいだな」という感じもときどき抱いてしまうのです。ワカルカナ? 


といいながらも、太平洋の上を飛びながら、桜の咲く姿あれこれが脳裏をよぎっています。

こどものころ、小学校の校庭に咲いていた桜。

高校のころ、この季節になると毎日歩いた、隣接する大学の桜並木。

今回の帰国中、三月初めはまだ寒くて、タクシーの中から見た赤坂御所の夜桜。

日本を出発する前日、中野通りの手前で、どこかの校庭を彩っていた満開の桜。


その時々で、自分は変わっていく。ともに時刻(とき)を過ごすひとたちも。思うことも。「あなた」と「わたし」、「きみ」と「ぼく」のあいだに、流れるものも。


それでも変わりゆく流れゆく年月のなか、桜が咲くころ、あの花を見ると、自分のなかに還ってくるものがある。「おかえり」と「ただいま」を両方言いたいような感じがする。桜をあとに、桜を胸に、海の向こうの街へ「帰り」ます。
 

また、アジアにも「帰る」ね。今度はどんな季節に、会えるかな?


 
author : watanabe-yo
| Living | comments(2) |

旅の途中に。

【2016.03.03 Thursday 21:07

司法試験が終わりました。結果はまだ先にならないと判りません。
でもね、今回は、どうかなあ。全力を出せれば射程内だと思う、というところまでは来た。でも、その全力が出せなかったのです。試合って「慣れ」もある。はじめてのことが重なって、生まれてはじめてというほど酷い、吐き気を伴う頭痛にも悩まされたりして、自分でも判るミスをしてしまった。できた部分もあるけれど、できなかった部分もある。そして、たぶん、全部できていないと、今回は難しいんじゃないかな。


自宅で毎日勉強しながら、数日に一度は少し外を歩く。自律と抑制の毎日。
そういう毎日も、実は、好きだったりする。


 
ニューヨーク州の試験の厳しさは想像以上でした。厳しい要素はいろいろあるのだけれど、そのひとつは試験科目の多さです。しかも、ロースクールで必須の項目(憲法とか刑法、契約法など)の試験ならよいのですが、よほど興味がなければ履修しないような州に特化した法についてもかなり細かく学び、小論文が書けるレベルまで法を熟知しなければならないのです。現在いろいろ司法試験の制度が変わっている最中なのですが、自分が受けた時点でニューヨーク州では合計20余の法律分野の細かな知識が要求されました。


これ、他の州では全然違うのです。お隣のニュージャージー州は基本の7科目(憲法、契約法、財産法、不法行為法、刑法、刑事訴訟手続、民事訴訟手続)だけ。小論文の難易度もはるかに優しい。でもなぜか受験料は3倍以上の高さ。なぜだ…。


試験準備コースの参考書と自分で付け足して使っていた参考書たち。
要点をまとめる「アウトライン」を教科ごとに作ります。
勉強中はお風呂にも、ベッドの中にもこれを持ち込んで、起きている時間のすべてを使っていた。


 
試験会場は巨大な室内競技場で、陸上競技のフィールドの中(!)に、どわーっと机が並び、あらかじめ割り振られた席で受験します。プラスチックの椅子が固くてお尻が痛かった。持ち物にもとても厳しくて、バッグや携帯電話の持ち込みは厳禁。本やノートも厳禁。持って入ってよいものは、2Bの鉛筆、消しゴム、アナログの腕時計、包み紙から出して透明な袋に小分けしたスナック(飴とかドライフルーツとか。でも包み紙に入っていたらだめ)、水のボトル(あらかじめラベルをはがして何も書いてない状態にしたもの)、薬。これらを、1リットル入りの透明ジップロック袋に入れて持ち込みます。


ティッシュを持っていっていいのか問い合わせたら「ダメ」。なんでも、ティッシュに何か書いて持ち込もうとしたひとがいたとか…。でもそんな付け焼刃で対応できるような情報量じゃないのですが...。


お昼は買いに行っている時間なんてないし、作っている余裕もないから、前の日にサンドイッチを買って、これもやはり包み紙をはがしてラップで包みなおして持って行きました。昼休み中は机の並ぶフィールド内は立ち入り禁止になるので、ぐるりと囲む観客席で、自分たちの「戦場」を眺めながらもそもそとサンドイッチを頬張る…。贅沢を言っている暇はないのです。


試験内容は、種類も範囲も難易度も州によって違いますが、ニューヨーク州の場合は四部構成になっています。


1)全国共通の(といっても、この試験を使うかどうかは各州が決める)四択問題、6時間。科目は憲法、契約法、財産法、不法行為法、刑法、刑事訴訟手続、民事訴訟手続、証拠法。これはかなり細かく難しい。 200問を6時間で解くので、一問につき費やせる時間は145秒程度。数段落に及ぶ長文の問題もあるので読み直す時間はほとんどなく、確実に細部まで読みこなし、引っかけ問題多発の選択問題をこなしていかなければなりません。ネイティブでも時間が足りなくなるひともいます。

2)ニューヨーク州に特化した選択問題、1時間。これもかなり細かいところを突いてくるし、上述のように学校では学んだことのないような細かなところまで聞かれます

3)ニューヨーク州に特化した小論文5題、各45分。出題内容は基本7科目に加え、信託、遺産相続、家族法、担保取引、代理人、複数州にまたがる事件の場合の準拠法、会社法、無過失保険法、州民事訴訟手続法、パートナーシップ、などなど…。

4)架空の法律や判例をその場で与えられ、限られた時間内にリーガルメモや最終弁論などを書き上げる問題解決能力を見る試験。これはMPT(Multiple Performance Test)と呼ばれ、90分。  



きちんと作ったアウトラインに愛着と誇りを感じたりして...。


ニューヨーク州の場合は州に特化した選択問題と小論文、MPTを初日に受けて、二日目に四択問題200問を受けます。
 

自分は普段はプレッシャーに強いのですが、はじめての経験(特に試験関係にちょっと弱い)にはあがってしまうことがあり、今回はそれに加えていままで経験したことのない頭痛と吐き気に悩まされてしまいました。でも、緊張していたのは自分だけではないかも。会場内で会った同じ大学院出身のベン君は「もう27時間寝てないんだ」と呆然としていたし、やはり同じ大学院出身のジ・ユンちゃんは「わたし、昨日2時間おきに目が覚めてた」と言っていたし。
 

会場内にはプロクターと呼ばれる試験官が何人もいて、受験者から出席証明の署名を集めたり問題集を配ったり、不審な行動をする者がいないか目を光らせています。試験問題は開始時間まで絶対に開封してはいけない。でもやはり緊張していたのでしょう、試験前に開封してしまったひとがいて、そのひとはラップトップコンピューターを取り上げられ、手書き回答を義務付けられていました。
 

ちなみにラップトップコンピューターはあらかじめ専用のソフトウェアを入れておきます。会場に入ったらノート類は一切開いてはいけない。すぐに専用ソフトウェアを立ち上げて、試験が終わるまでコンピューターを机から動かしてもいけない。


すべての試験が終わって、嬉しいかなって思ったら、嬉しくはなかった。ただ、真っ白でした。

 

さて、今回はそんなわけで自分の結果は芳しくないんじゃないかな…と予測しているのですが、実は、あまり悲壮な心持ちではないのです。そりゃ一回で受かりたいけど、全力出せなかったのだから仕方がないもの。また受けるしかない。




 
これは、旅の途中だから。旅に「結果」はない。「経過」があるのみ。
でもさ、結果を出すことより、どうしたらいいか考えて、そのためにがんばる、そのことの経過のほうが、ほんとうは楽しいし、好きだな。


自分にとって、弁護士
に「なる」というのは目的ではないのです。それは手段にすぎないし、「夢」ではない。自分の見たい未来はもっとずっと先にあって、それはいま地上に与えられた人生のなかでは、たぶん叶えることはできないけど、もし思いが波及するなら。もし自分にできることをできるだけする、そんな「布石」を打つことができるなら。


試験2日目に見た夜明け。


これまで生きてきたなかでも、いろんな旅をしてきました。生まれ育った国と街を離れて、両親と離れて、ニューヨークという土地に自分の生きる場所を見つけたこと。演劇も、ものを書くということも、法廷やさまざまな司法の場で翻訳をしたり通訳をしたり、司法案件のチームをまとめるプロジェクトマネージャーをしたことも。外側から見たらいろんな違う仕事をしてきたように見えるかもしれないけれど、実は繋がっていて、同じ夢を追うためのその時々に「するべきこと」をしてきたにすぎないのです。


見たい未来は、もっとひとびとがお互いにわかりあえる世界。ヒト科以外の、しっぽや翼や鱗のあるヒトビトも安心して生きていけるような世界。出し抜きあったり誰かを利用することより、みんなが、みんなと、わかちあったりわかりあったりするために、自分にできることをしたい。何をしたら貢献できるだろう? 


法律には実は全然興味がなかったのだけれど、米国の司法制度を知って、それで興味を持ちました。英米の法体系と日本や欧州の法体系との大きな違いは、英米法の柔軟さです。それは、制定法だけでなく判例が法的拘束力を持ち得るからなのだけれど、それだけ書いてもわかりづらいかもしれませんね。説明しようとするとあまりにも長大な文章になってしまうから割愛するけれど、少なくとも自分の目に映った米国の法体系は、「石に穿った大昔の法典みたい」と思っていた日本の法律よりもずっとダイナミックで、人間的で、面白いものだったのです。混沌を極める世界にあって、法というのは、ひとびとがなんらかの秩序や公平さをもたらそうとする絶え間ない努力なのだ。そう思ったら、もっときちんと勉強してみたくなったのです。


自分がいま法律の専門家になったとて、それで地球が救えるなんて錯覚はもちろんないけれど、でもたとえば誰か困っているひとを助けるには法律のことを知っていて、実際に助言ができるほうがいい。愛する「ヒト科以外のヒトビト」のために、たとえば仕事の傍ら何か無料で法律関係のボランティアができるかもしれないし、自分自身がきちんと生活できる基盤を築けば、環境のために募金したいと考えたときもきちんと貢献することができる。
 

うまく伝わるかなあ。もっと美しい文章を書きたいのだけれど、今回は話の内容も堅いので少しぎこちないですね。ごめん。


 
そんなこんなで、いまは少し宙ぶらりん。三ヶ月、毎日、週末も返上、好きなお酒も一切断って勉強してきたから、今月はそんな日常から離れる旅の月です。まずは家族のもとへ帰って、少し「ひとりでがんばる葉之輔君」にお休みをあげよう。


日本は生まれ育った国だけれど、人生の半分くらいは別の土地で生きているから、自分にとってはどんどん異国のようになりつつあります。それと、馴染みのない東京の風景を見ながら、「目に見える」風景の向こう側に、いつか見た時間の向こうの風景を見ている自分がいる。東京を歩くと、身体は「いま」の東京を歩いているのだけれど、心は「いつか」に旅している。
 
なかなか厳しかった冬を越えて、次の旅に出るまでのポケットのような日本の旅。桜にも会えるかな? いつかみた笑顔や、まだ見ぬ笑顔にも会えるかな?

 
author : watanabe-yo
| Living | comments(7) |

オクスマンさんの家 第三話

【2014.12.31 Wednesday 00:42

<本編は、オクスマンさん連話の第三話です。これまでのおはなしについては、第一話第二話をご覧ください。>


トロル男のベンは、ぶきっちょだった。全体的に「もさ〜っとでかい」雰囲気が漂っているのだけれど、なかでも人づきあいに、ぶきっちょだった。

わたしはあるとき仕事で数日のあいだ街を離れなくてはならず、愛猫ひめひめの世話のため、友人に来てもらうことになった。見知らぬひとの出入りを不審に思われると困るので念のためトロル男にそのことを伝えると、ぼさぼさ眉毛の下の眼をギロリとさせて、こう云った。

「で、そのねえちゃん、いいおんなかい?」

わたしは一瞬、どう対応したものか途方に暮れ、動きを停止してしまったけれど、次の瞬間に「はあ」と息を吐いて答えた。

「そういうこと、きみは気にしなくていいの」

ベンはまばたきをして、「おや、そうか」と云った。

正直云うとこちらも一人暮らしの女性だし、相手は我々全員の部屋の鍵を持っている管理人なのだ。云うこと間違えているじゃないか。

以前にも困った発言があった。ケーブル設置で業者に来てもらったときにトロル男も「監督」するためわたしの部屋に来たのだけれど、どうやらしばらく(?)お風呂に入っていないらしく、部屋には「もわ〜」と鼻が曲がりそうなニオイが漂った。それに、出て行くときにこちらを見てにやりと笑い、「今日のランチはなにかい?」なんて云うのだ。知ったことか! 招待なんかしてないぞ。

困ったトロル男発言に思わず「オクスマンさんに告げるべきか」と思ったけれど、武士の情けでやめておいた。まったくトロル男ときたら、どう贔屓目にみても清潔じゃないし、地下のランドリーにもなんだかいろんなガラクタを積んだままだし、そのくせひとに何か云うときはやたら偉そうだったりしてヤレヤレなんだけれども、実のところわたしや友人にちょっかいを出そうなんて思っているわけではなく、フレンドリーな冗談を云っているつもりなのだ。ぶきっちょだなあ。。

そんなトロル男が、夕暮れ時や夜がとっぷり暮れた時分にアパート前の消火栓にひとり腰かけて摩天楼のあいだに浮かぶ空を見つめる姿を、時々見かけた。下手に捕まって長話になると厭なので「ハロー」と云ってそそくさと中に入るのがわたしの常だったけれど



 

そもそもトロル男はどこからきたのだろう? ホビット族のオクスマンさんと巨人トロル男。どこで知り合ったのだろう? 以前は疑い深かったというオクスマンさんが、いったいどういう経緯でトロル男を信用するようになったんだろう? 

身体の大きさはオクスマンさんの四倍くらいあったけれど、わたしにはいつも、トロル男のベンは、オクスマンさんが何かの拍子に拾ってしまい「困り者だが面倒を見る事に決めたこども」のような存在なのでは、と思えて仕方がなかった。

その年のクリスマス直前に、愛猫ひめひめが天に還った。ひめひめのいちばん可愛い写真を印刷してカードを作り、オクスマンさん夫妻に宛てて送った。オクスマンさんは猫好きで、ひめひめを病院に連れていくときにばったり出逢ったりすると目を細めて「このこはいい猫だ」と可愛がってくれたのだ。オクスマンさんに送ったカードには、ひめひめが逝去したことは書かなかった。ただ、「いつも可愛がってくださりありがとうございます。どうか暖かく安らかな年末年始をお過ごしください」と書いた。前の年にカードを送ったときにはオクスマン夫人の手書きのカードをお返しにいただいたけれど、この年には返信はなかった。冬のあいだじゅう、オクスマンさんの姿を見ることはなかった。




 

復活祭が近づくころ、珈琲豆を買いに外に出たら、痩せ細ったオクスマンさんにばったり出くわした。こけた頬に闘病生活の辛さがにじんでいた。長いこと入院していたのだ、と教えてくれた。それでも逢えたのが嬉しくて、「心配していたんですよ。早くよくなってくださいね」と云うと、オクスマンさんは少し顔をくしゃ、とさせるように笑って、「そうなるようがんばっておるのじゃ」と答えた。

その後でオクスマンさんから電話があった。大家さんから電話なんてなかなか無いから何事かと思ったら、

「保険会社のひとにアパートの部屋を見せたいんだが、きみのところに送っていいかね」と云う。オクスマンさんの頼みなら、とふたつ返事で承諾した。

数日後にスーツを着た数人の男たちが来たとき、「あ、違う」と思った。うまく云えないけど、勘で判った。わたしの直感を裏付けするように、同じようなスーツ姿の男たちがその二、三日後にもやって来た。二度目のときは予告なしで。一回だけだと思ったのに。わたしの不在中にも入ってきて部屋を見ようとしているのだろうか? 不穏な心地がして、オクスマンさんに電話をかけた。

「どうしたのじゃ」

「あの、わたしの部屋を見せるのは一回だけかと思ったのに、あのひとたちまた来たんです。予告もなしで。知らないひとたちが何度も来るのは厭です

オクスマンさんは申し訳ながって、すぐに手配する、きみはもう心配しなくていい、と云ってくれた。それでもちょっぴり不安だったので、紙に大きな字で、

『住人の許可無しにこの部屋に入ろうとするのは違法行為です』と書いてドアに貼った。(知らない人もいるかもしれないけど、米法ではたとえ大家でも管理人でも住人の許可なしに勝手に貸しアパートに入るのは違法なのだ。)

でも、本当の不安は別にあった。

(オクスマンさんはこの建物を手放そうとしている)

あれは保険会社のひとじゃない。どこかのブローカーだ。物件としてこの建物を売ろうとしているんだ。誰かに聞いたわけでも物的証拠があるわけでもなかったけれど、あれだけ身体の具合が悪いのだもの。オクスマンさん...。



 

六月、日射しがすっかり夏になるころ、アパートのおんぼろエレベーターの前に一枚の紙が貼ってあった。

「住民諸氏へ

 オクスマン氏が逝去しました。葬式は西五十八丁目のナントカ教会

汗ばむほどの陽気の中、その教会に行ってみた。米国でお葬式に出るのははじめてだ。ユダヤ式のお葬式というのはどういうものなんだろう。映画で見たユダヤ系のひとのお葬式はみんな黒を着ていたから、黒いワンピースで大丈夫だろうか。

少し遅れてしまったので、着いたころにはもうサービスがはじまっていた。小さな教会の奥に、見知らぬ若い男性の大きな写真が立てかけてある。あれが若いころのオクスマンさん? 太いセル縁の眼鏡をかけて、あれは40年代か50年代ごろの服装だろうか。参列者は知らないひとばかり、たぶん家族や身内、友人たちかな。東洋人はわたしだけだ。後ろの方の席に座った。気配を感じて振り返ると、最後列にトロル男と、わたしにオクスマンさんのアパートを紹介してくれた不動産屋のラルフが並んで座っていた。

「アパートの住人で、来たのはきみだけか」 トロル男が云った。

「みんな忙しいんだよ、きっと…」小声で返事しかけたけど、うまく言葉が出なかった。

教会といってもユダヤ教の教会ではなくて、なにかいろんな幅の広い宗教の集まりに使うような、多目的ホールみたいな感じの会場だった。司祭というよりは司会といった風情の男性が文字通り司会をしており、オクスマンさんの経歴を紹介していた。聞きながら、わたしは少しびっくりしていた。わたしにとってはただ「ホビットのような大家さん」だったけれど、こんなひとだったのか…。
 

若きオクスマン青年は音楽が大好きで、第二次世界大戦に従軍したときは楽団部隊に属し、欧州中で演奏して回ったこと。うんと昔はチューバを吹き、それからドラムに転向したこと。戦争が終わりニューヨークに戻って来たオクスマン青年はアパートを借りようとしたけれど、彼が太鼓叩きだと知った大家さんに追い出されたこと。「あんたたち音楽家はいつも練習、練習だ。うるさくてしかたない」と。

オクスマン青年は、(それなら自分で建物の持ち主になってやる。そうすれば心置きなく練習できる)と考え、懸命に働いたという。何をしたのかは説明が無かったけれど、どうやらビジネスの才覚があったらしく、やがて上西町にいくつかの建物を所有するようになった。八十二丁目のわれらがアパート以外にも、八十六丁目に建物を持っていたらしい。そこであるとき、オクスマン青年はとんでもない訴訟に巻き込まれた。

「オクスマンさんの入院中に聞いた話でね」と、お葬式の司会者が云っていた。彼はどうやらやはり司祭ではなく、本業は弁護士らしい。オクスマンさんが、自分が世を去っても妻がきちんと生きていけるようにと雇ったらしかった。彼の話してくれた"オクスマンさんの司法事件"は、入院中にオクスマンさんの枕元に通うなかで聞いたらしい。

「助手を法廷に送って、資料を探させたんですよ。オクスマン対シルバーマンの法廷劇

オクスマンさんの八十六丁目の建物は、ファサードに藤の蔓が絡まり、緑の葉に包まれていた。オクスマンさんは猫だけじゃなくて、植物や、いろんな生きとし生けるものを愛していたのだ。だからその藤も、自分で植えたものだった。

ファサードを覆うようにして茂る藤蔓がいつからか、ホシムクドリたちのすみかになった。ホシムクドリは雀と鳩の中間くらいの大きさで、黒褐色のからだはびっしり、星を思わせるキラキラの斑点に覆われている。群れるから嫌うひともいるけれど、ちょっと九官鳥を思わせるきろきろの目でたべものをさがしながらヒョコヒョコ歩くその剽軽な姿、わたしは好きだ。

けれども、オクスマンさんの建物の向かいに住むシルバーマン氏は、鳥たちの声が許せないらしかった。オクスマンさんの藤蔓のせいで鳥たちの騒音がうるさい、迷惑行為だ、弁償しろ、さもなくば藤を根元から切り倒せと、ニューヨーク州上位裁判所でオクスマンさんを訴えたのだ。

「本件は、被告オクスマン氏の建物に茂る藤蔓を突如ホシムクドリ一族が住居と認定したため、鳥の騒音被害を嘆いた原告が提訴したものである。鳥たちのもたらす被害は、当法廷も熟知するところである。なぜなら、当法廷もあるとき突如鳥たちに人気を博してしまい、入り口の階段が鳥糞に覆われることとなった

怪しい雲行きの判決、と思いきや、

「ところが、これによって明らかなのは、鳥たちが被告オクスマン氏の建物を住居と定めたのは藤蔓のせいではない、ということである。なぜならば、当法廷にはそのような見事な藤蔓はなく、むきだしの石づくり。よって、ホシムクドリたちが被告オクスマン氏の建物を偏愛している理由は被告オクスマン氏の植えた藤蔓とは無関係であるばかりか、その原因は鳥族に聞いてみなければ判らないのである」

なんて粋な裁判官! シルバーマンさんの訴えは却下、オクスマンさんは「司法上の大勝利」を収めたのだという。

その話のあと、生前のオクスマンさんが可愛がっていたという、親戚なのだろうか、大学生の青年がふたり出てきて、オーボエでショスタコーヴィッチとショパンを一曲ずつ合奏した。オクスマン夫妻にはこどもがいなかったらしい。けれどもふたりの青年とオクスマンさんはよく音楽の話をしていたのだという。

最後に別の紳士が前に出て、こう云った。

「レオン(オクスマンさんの名前)は、いまここにはいない。けれど…悲しむのはやめましょう。蝶を思い浮かべてください。われわれはこの地上を這い回り、空を見上げる。レオンは蝶になったのです。この世界から向こうの世界へ、羽ばたいていったのです。けれどふたつの世界のあいだにあるのは、ふたつの世界を分かつ壁ではない。ただ、この世界からあちらの世界へ、羽ばたくときがやってくる、誰にも...。逢えたことを感謝し、慈しみ...蝶になったレオンを憶いましょう」


昔読んだ、エリザベス・クブラー・ロスの本を思い出していた。死を目前にしたユダヤ人のこどもたちが、ナチスの収容所の壁に刻んだという蝶の絵。そういえば古代アッシリアの遺跡には、羽根を生やしたひとの絵がたくさん刻まれている。ひとはあちらの世界に逝くとき、翼をもらうのだろうか? 





 

蝶の羽根をもらって天に昇ったオクスマンさんは、ひとあし先に逝っていたひめひめに会えただろうか?

涙もろいわたしは泣いてしまったけれど、悲しいからじゃなかった。ただ、愛しさがこみあげて涙になるのだ。オクスマンさんに会えたことも、まったく知らなかったオクスマンさんのことをこうして知ることができたのも。





 

夏が熟すころ、オクスマン夫人の名前で、アパートが売れたことを知らせる通知が来た。新しい大家さんはアパート管理会社のようで、オクスマンさんのように個人の大家さんと世間話をする、なんて一幕はもう無いらしかった。賃貸契約はまだ有効だし、そのまま更新もできる。けれど、

「ベンが解雇されたのよ」

そう教えてくれたのはツルマキさんだった。アパートの廊下でばったり逢ったときのことだ。ツルマキさんはこのアパートの中でも最も古い住人のひとりだ。オクスマンさんやベンの文句を云うこともあったけれど、居なくなる、となると話は別だ。

正直なところ、ベンは行くあてがあるんだろうか、と思った。だって、ぶきっちょだけど悪い奴じゃない、とは云っても、世間的に見たら…どんな再就職の口があるだろう? 家族はいるんだろうか?(わたしの中ではどうしてもトロル男なので、どこかの岩場からひょっこり出てきたんじゃないか、と想像してしまっていたけれど)

「もう一年の四分の三は過ぎたでしょう。これからクリスマス。だから、以前からいた住人だけでも、毎年クリスマスに渡す御礼をカンパしたらどうかって思うの」

ニューヨークのアパートでは毎年冬に、一年間の御礼として、数十ドルから百ドル相当の現金かプリペイドのクレジットカードをアパートの管理人さんに渡す。ツルマキさんはそのことを云っているのだった。それから二、三日のあいだにツルマキさんは古い住人みんなと話をして、二十人分くらいからカンパを集めた。わたしも参加して、カードもつけた。ツルマキさんがみんなの分を集めて、ベンにプレゼントしてくれた。

ベンの後には、アルバニア人のジョンさんという管理人が入った。ジョンさんはベンと違って(失礼)こざっぱりしており、こまめによく働くので地下のランドリー室もゴミ捨て場もたちまち見違えるほど綺麗になった。ベンはその後も時々なにか用事を済ませに来ていたけれど、暫くして姿を見なくなった。

 

それでも八十二丁目を歩いてアパートに帰るとき、ベンがいつも座っていた消火栓を見ると思う。トロル男はここで空を見上げて、何を考えていたんだろう?

そしていまでも、ランドリー室に行くときには、あの小柄なオクスマンさんの姿が浮かぶ。赤と白のボーダーTシャツなんか着て、ちょっとはすに葉巻をくわえたお洒落なおじいちゃま。ランドリー室の奥にある作業室で古いラジオが昔のジャズなんか流しているときは、背中の羽根をたたんだオクスマンさんがそっと耳を澄ましているんじゃないかな、なんて想像する。

 

 

高度一万メートル、太平洋を越える飛行機の機内で本稿を書いている。夏からずっと書きたかったけれど、大学院の勉強に追われてなかなか書けなかった。楢葉さんと年が越せるかな、と思ったけれど、あのこは天に還ってしまったから、急いで航空券を買ってお正月の数日間、帰郷することにした。

ニューヨークから成田に向かう午後便、カナダの上空にさしかかる頃、右手の窓からオーロラが見えた。空にたなびく天子の羽衣のような光の帯。碧を帯びた白い帯が、刻一刻と姿を変えていく。窓に顔を近づけてそれを眺めながら、地上も、天でも、すべては変わりゆくのだと思った。日々の暮らしも、愛するものたちも、自分自身も、時を重ね変わっていく。地上を去るもの、地上で別れるひと、いつもそこにあるように見える山も、海岸線も、変わっていく。

「変わる」ことは悲しいことなのだろうか?

時と運命の流れのなかで、出会ったひとたち。小さい命を燃やして逝った楢葉さんや、ひめひめ。自分が高校生のとき天に還った祖母のこと。祖母は戦争で夫を亡くした。まだ若き彼女が、それから数十年の人生を生きながら、どんな思いを胸に抱いていたのか、大人になってみて改めて思いを馳せる。

流転するからこそ宇宙は生きており、死するからこそ生まれるものがある。

「変わる」ことを悲しむよりも、「変わる」ことも含めて愛せればいい。「変わる」ことのなかに、「変わらぬ」ものもあると、我々はみな、体験を通して、知っているのだから。一滴一滴の雫の連なりが河となり海となり雨となり氷河となるように、地表だけじゃない、外の天体にも「水」があって、だから宇宙のなかの水は限られた質量のようで、でもどこからどこまで限られているのか誰にも判らないように、そんなふうに、一瞬一瞬の連なりのなかにも永劫を感じられたらいい。

キャンディみたいに並んだ白とピンクと青の小さな光の粒めざして、飛行機は舞い降りる。

長いオクスマンさんのお話を読んでくださってありがとうございました。あなたがどこにいても、去りゆく年に柔らかな面持ちで「ありがと」て云えるような、そんな年越しになりますように。新しい年が、いろんなヒトやモノゴトとの出会いや冒険、愛しいものたちとの時間に、満ちていますように。

 

author : watanabe-yo
| Living | comments(14) |

楢葉さんが旅立ちました。

【2014.12.07 Sunday 04:40



 
猫の楢葉さんが、空へと還っていきました。今年の六月にシェルターから迎え入れ、半年に満たない時間だったけれど、彼女のいる暮らしは毎日、毎秒が倖せでした。

去年の十二月に先猫のひめひめが旅立ち、数ヶ月のあいだひめひめを失った悲しみにくれていたのですが、春頃から、また、「しっぽのあるヒト」と暮らしたいと思っていました。シェルターのホームページには年齢によって収容されている猫のリストがあって、迷う事なく「大人・シニア」の猫をみていました。自分のいまの生活では子猫の世話はできないし、できれば引き取り手の見つかりにくい、高年齢の猫を迎え入れようと決めていたのです。

三十匹ほど顔写真の並ぶページをひとめ見て「あ、この子」と思ったのが楢葉さんでした。シェルターでは、Nala(ナーラ)という名前が付けられていました。少しだけ目尻の上がった大きな目と、なにか「凛」とした気配が気になったのです。でも直接会ってみないと判らないから


夏のはじめのある夕べ、楢葉さんを迎えにいきました。

六月中旬、大事な仕事の海外出張が終わって紐育に戻るとすぐに、シェルターに行ってみました。所謂「No Kill」、つまりどんな子も殺さないのがポリシーのシェルターです。郊外のロングアイランドにあるので、普段は乗らない電車に揺られて一時間の小旅行でした。

そこで出逢った楢葉さんは、写真の美しい猫とはずいぶん様子が違っていました。ゲッソリと痩せて毛並みもぼさぼさ、みんなから背を向けてくるりと背を丸めているばかり。正直「大丈夫かな」と思ったのだけれど

「いまここにいる猫たちのなかで、いちばん家庭を見つけるのに苦労しているのはどの子ですか」

と尋ねると、それは楢葉さんだと云われました。
逢う前から「この子」と思っていたし、縁があるのかな...

なんでも、もともとはどこかの家に八年間ほど飼われていたのだけれど何らかの事情でシェルターに連れてこられて一、二年を過ごし、そのあと一度は別の、こどものいる家庭に引き取られたもののわずか二ヶ月ほどで「返された」とのこと。そして二度目にシェルターに来た頃から病気になり、ゲッソリと痩せてしまったのだとか。


「ナーラちゃん、うちに来る?」
そう話しかけてもそっぽを向くばかり。ふと見た目には暗い蔭りが宿っていました。

連れて帰らないわけにはいかない。

病気持ちというのはその時点で判っていたけれど、その後発覚した程の酷い傷を口腔内に負っていたことは、知りませんでした。(シェルターのひとが知っていたのかどうか…もし知っていたとすれば彼らはそれを伝えるべきだけれど、真相は判りません。でも結果的には楢葉さんを迎え「ない」という選択は自分にとって既にそのとき、なかったと思う。)

郊外なので誰もが車で行き来するなか、楢葉さんの入ったケージを抱えて夕闇のなか歩いて駅まで戻り、半時間ほど電車を待って、ガタゴト揺られて帰りました。楢葉さんにしてみればいったいどこへ連れて行かれるのか不安だったに違いないけど


(シェルターからうちにやってきた翌朝の楢葉さん。まだ警戒気味です。

家についたらまず彼女をバスルームに閉じ込めて。小さい空間で慣れさせるんです。怯えてあなたに噛みつくかもしれない。

シェルターの係のひとにそう云われていたし、最初に小さい空間に入れて安心させるというのは犬猫とつき合う上ではよく云われることなので、アパートのバスルームにまず入れて、でもドアをぴっちり閉めるのは何か憚られ(だって、小さいケージに閉じ込められる毎日を過ごしてきたのだから…)、一センチくらい隙間をあけてドアを閉めると。

数分もしないうちに、彼女はいとも容易にドアを開け、するりと出てくると、トコトコトコと歩きまわって、ベッドの向こう側やソファの後ろを覗いて確かめていました。怯えているというよりも、

「ここ、おうちですか? ほんとですか? ほんとですか?」

と、安心感と嬉しさを抑えきれない様子で。小さなアパートなので、探険にもそう時間はかかりません。他にはだれもいない、楢葉さんとわたしだけの「おうち」なのだと確認すると、彼女のために置いたボウルの水を時間をかけてゴクゴクと飲み、わたしの足下にきてちょこんと前足を揃え、

「ねいさん、ありがとございます」

と目で伝えてきました。


楢葉でございます。ねいさん、仁義です。

複数の家庭を転々とし(というか、転々とすることを強いられ)、シェルターにも何度も出入りしてきたせいか、最初のうちはやはり警戒心を抱いている様子でした。下手に手を出すと噛みつくことも。(もしかしたらこどものいる家庭に一時引き取られたとき、こどもが遊ぼうと思って手をだしてくるのが怖かったんじゃないかな…。そして、そこで噛みついて、怒られたりして、それがショックで二度目にシェルターに戻されたときに病気になってしまったのかな?)



だんだん慣れてきましたよ。キャハハハ!
(大笑いしてるように見えるけど、実は大あくびしているところ)



うちに来て一週間ほどしたある朝、楢葉さんのまぶたが大きく腫れていました。驚いて病院に連れていくと、どうやら前日に食べたごはんに魚が入っていたのが原因のようでした。ごく稀に、魚にアレルギー反応を示す猫がいるのだそうです。
まぶたの腫れはアレルギー反応なので「魚を食べないこと」ですぐに治るでしょう、と云われました。

問題は...
獣医のシェヘリ先生が彼女の舌を見たとき、


「これは、いったい何!?」

驚いて覗くと、楢葉さんの舌の真ん中には黒々とした、そこだけエイリアンの皮膚を思わせるような異質な、大きな孔が空いていました。

ごはんを食べるときに周囲に散らかしてしまうのが少し気になっていたのだけれど、そのわけが判りました。こんな傷を負っていたら、フレーク状のごはんがひっかかって、痛いに決まっています…。


ごはん、たべられるかな...痛くなるかな...どうでしょうか...

その時から、楢葉さんの病院通いがはじまりました。舌の病状は「好酸球性肉芽腫」かもしれないということで、毎日ステロイド剤を飲ませていました。(まぶたの腫れは、ごはんから魚を排除することでやがて治まりました。)


くまたんともすっかりなかよしですよ

でも、彼女だけの「おうち」の暮らしはほんとうに嬉しかったようで、彼女の好きな鶏とパンプキンのごはんをあげると、

「これ、おいしですね? おいしですね?」

と云いながら(ニンゲンの言葉じゃないけど、猫語でそう云ってた)、こちらが驚く程の量をぺろりと平らげてしまったことも。シェルターから迎え入れたときは骨と皮ばかりでげっそりしていた身体も猫らしい曲線を描くようになり、最初は厭がっていたお風呂にも入れさせてくれるようになりました。(シェルターから来て最初にお風呂に入れたときは、ぬるま湯が真っ黒になって驚いた)


(こわくなっちゃったとき避難するための、楢葉さんの"猫壷"。紅いお花がお洒落ですよ)

うっかりブラッシング中に後ろ足を触るとガブッと噛まれることもあったけど(たぶん反射的に反応してしまうのだと思う)、急な反応をせず静かに「それ、痛いよ」と告げてしばらく構わずにおくと、安心もし、微妙に反省もしているような顔つきをするのでした。

もともとはひとなつこくて愛嬌のある子なのでしょう、わたしが勉強しているとそっと横に来て見上げることもしばしば。脇の椅子に置いたクッションをぽんぽん、と叩くと、それが「こっちにおいで」という言葉であることをすぐに理解してぴょんと飛び乗り、満足げにしっぽの先を揺らしながらいつまでも横に座っていてくれるのでした。



(勉強の手伝いに目覚めたころ。) 
ねいさん、どんどんやりますよ!!


論文提出前に勉強していると、

「おてつだいしますですよ!!」

とテーブルにのってきて、ものすごいやる気を見せながら資料の山の上に座ってくれたこともしばしば。
(猫と暮らすひとには経験あると思います。新聞とか読んでると必ずのっかって「手伝って」くれますね)


「なーたん、ありがとう。いいこだね」
(楢葉さん、がなっぱさん、になり、なっぱたん、になり、次第になーたんになった)


と声をかけると、大きな目を細めて嬉しそうにしていました。


(勉強の手伝いにハリキリすぎた一例。

お風呂に入れて以来、バスタブと「水」の概念が直結したらしく、

「お水は、おふろでのみます」

と云いはじめたのもその頃です。


お水はおふろですよ。。

バスルームに行って何か云いたそうにしていたとき、最初は何なのか見当がつかなかったけれど、「どうしたの?」と彼女の目を覗き込んでみたら、彼女がそう思っているのが判ったのです。新鮮な水を入れた鉢を彼女の前に置くと、

「よかった! これでお水がのめます」
といったふうに明らかに安心してゴクゴク飲むのでした。


お水のたかさがだいじです。。

舌を貫通するほどの孔が空いているせいか、楢葉さんにとっては水の「高さ」もポイントでした。以前ひめひめが使っていた「ごはんテーブル」に置いた鉢がちょうどよいこともあれば、なぜかそれだとだめで、縁ぎりぎりまで水をいれたコップをすぐ目の前に差し出してあげるとやっと安心して飲むこともありました。


(脇腹の毛を歯でむしってしまうので、Tシャツを着せられてしまった楢葉さん。)

ニンゲンと猫は言語が違うから話し合えない、と思っているのは心の目にサングラスをかけてしまっているひとじゃないかな。心の耳を傾けてみると彼らの言葉は聞こえてくるものですよね…。そのときどきの事情は判らなくても、動物たちは特定の具体的な条件にこだわるヒトたちということを読んで以来、随分彼らの言葉が判るようになった気がします。(テンプル・グランディン著の『動物感覚』、原題 “Animal in Translation”がとても参考になりました)

最初のうちはソファで寝ていたのに、わたしが床に就くときにはぴょんとベッドに飛び移ってきて横に寝そべり、喉を鳴らしながら眠りにつくようにもなりました。(朝になるとソファに戻っている。こちらの寝相が悪かったかな?)


ソファでおひるね。やわらかい時間が流れていきます。。

ステロイド剤はなかなか効かなくて、舌の孔は広がるばかり。好酸球性肉芽腫ではないのかもしれない、と疑いはじめたシェヘリ先生のアドバイスで、口腔専門医の検診を受けました。生体組織検査の結果は「原因不明」。二人の専門家が分析してくれたのですが、腫瘍があるかないかで意見が二分したのです。生体組織検査の結果を携え、楢葉さんを連れて腫瘍専門の獣医さんに見てもらって、漸く出たそれらしい結論は、「はっきりとは判らない、複雑で前例の見られない症例だけれども、おそらく悪性の肉腫(sarcoma)と、なんらかの感染症が組み合わさったものだろう、ということでした。放射線治療や切除手術も考えたけれど、どうやら腫瘍の「本体」は舌の根の部分に蛸の頭のように居座っていて、舌の表面の孔は末端部に顕われたものらしい、とのこと。つまり切除や放射線はかなり広範囲で、食べるための身体の機能のいちばん大事な部分を取り去るという、大掛かりなものになる。楢葉さんの医療記録は膨大で複雑なのですが、他にも症状があるのです。シェヘリ先生と長いこと話し合い、放射線や手術は身体に負担が大きすぎる、との結論で一致しました。

秋に入るころにはだんだんごはんが食べられなくなってきました。なんとか彼女の食べられるものを、といろいろフードを変えてみたり、鶏ささみを柔らかく茹でてみたり、うんと薄く切ったしゃぶしゃぶ用の肉を霜降りにして与えてみたり。でも暦が十一月に入る頃には、ぐっと食が細くなり、最初のころにやっと曲線をおびてきた身体は日に日に痩せていきました。
一週間おきにシェヘリ先生のもとに通って抗生物質の注射を受け、家ではステロイド剤を飲み、痛み止めの注射を打ち、食べられないときには皮下点滴をし。病気の猫の世話をするのは慣れているから、わたしのところに楢葉さんが来てくれたのは巡り合わせだったな、と思います。


おくすりは、やですー

皮下点滴は最初のうち、

「こわいですー」
と逃げようとしたけれど、針を入れる前に痛み止めを打ち、ブラッシングをして話しかけながら点滴するうちに、彼女のなかで(これは気持ちよくなるものだ)という理解が芽生えたらしく、のどをごろごろ鳴らしながら点滴させてくれるようになりました。


ねこさんもたいへんです。。。すうすう。。。。

十一月の終わり、感謝祭の祝日前にはいよいよ何も食べられなくなって、その頃から安楽死の手配を考えていました。病院というのは、動物にとって「こわいところ」。だから、その時が来たら訪問対応可能な先生に自宅に来ていただこう、と。
苦しくなる前に早めに、と安楽死の手配をしたこともあったのですが、(まだ、じゃないかな)と心がざわざわして、一度目の予約はキャンセルしてしまいました。その時は夜になってから少し食欲が出て、バターをつけたパンと鶏のつぶしたのを食べてくれたから、やはりあのときはまだ「その時」ではなかったのだと思います。



(最後の数日は、ベッドスタンドと窓際ですごしました。)



けれどその僅か二日後。あまり具体的に書くとビックリしてしまう方も多いと思うけど、とうとう舌が裂けて…信じられないほどの凄絶な状態だったのです。驚いてシェヘリ先生のところへ連れていって、あれこれ話しました。手術で一部を切除してチューブ給餌、という選択も話したけれど、楢葉さんの身体はとてもデリケートだからそれに堪えられるかどうか。
ごはんが食べられない状態ならば、もう逝かせてあげたほうがいいのかもしれない。

それでも家に戻って、楢葉さんを撫でていたら、「ミュー」と云うのです。

あれ、お腹すいた、って云った?

(な、なにか楢葉さんの食べられそうなものをあげてみよう)と思って頭をめぐらせるうちふと思いつき、冷凍庫にあったアイスクリームをあげてみたら…なんと大当たり。いままで食べていた鶏のフードやパテにはもう見向きもしなくなっていたのに、

「これおいしですね? おいしですね?」

と、舌は使えないのに前歯でアイスクリームをかじって、口をはふはふしながらおかわりもしてくれました。
けれど、スプーンに一、二杯のアイスクリームでは身体を持続させることはできない。


(窓際から床に落ちてしまったことがあったので...箱と毛布を敷いて、「楢葉さんの小部屋」をつくりました。)

足腰が立たなくなってしまったのは、一昨日の夜のことです。トイレに連れて行って身体を支えてあげると、用を足すことはできる(首の動きや目の動きで、トイレにいきたくなったときを教えてくれました)。でも、もう自分の力で身体を支えることもできなかった。朝を待ってすぐに獣医さんに連絡をしました。シェヘリ先生は都合で来られなかったけれど、口腔専門のマリー先生が昼過ぎに来てくれることになりました。

獣医さんの到着を待つまでの最後の数時間、楢葉さんの横に座って見守っていました。



ダイジョブだよ。もうすぐ楽になれるから。怖くないよ。

よくがんばったね。精一杯生きたね。

もっと一緒にいたかったね。

お空に還って、少し休んで、また生まれ変われたら、こんどは他のおうちに寄り道しないで、まっすぐ戻っておいで。待っているから。

いろいろ話しかけたけど、伝わったかな…。痛み止めも多めに打っていたけど、苦しそうだった。最後は貧血もひどく、いつもはピンクの肉球が真っ白になっていたのです。

獣医さんの強力な催眠薬で眠りに落ち、続けて打った薬で、辛そうだった身体は静かに呼吸をとめ、楢葉さんは空に旅立ちました。

でも、早めに安楽死を手配しなくてよかったと思う。あの時はまだ、楢葉さんは全身で生きようとしていたから。生きようという力が、意思が彼女のなかにある限り、精一杯生きてほしかったから。

小さな鼻に皺をよせて、「えいえいー」とアイスクリームをかじる顔が浮かんできます。彼女がいなくなって寂しいけど、逢えてよかった。天国で休んだら、また戻ってきてくれるかな? そしたら、彼女が大好きだったマスカルポーネのアイスクリームを、またいっぱい一緒に食べよう。


ならちゃん、ありがとう。
 
 
author : watanabe-yo
| Living | comments(11) |

オクスマンさんの家 第二話

【2014.08.06 Wednesday 14:21
熊のように大きくて、 眉毛と髭は茫々と伸び放題。眼光ギラリと油断なく光り、その存在感だけでひとはすくみ上がってしまう。

そんなひとを想像していた。十数年前からオクスマン氏を知るというブローカーのラルフが「ちょっと頑固者でね」というくらいだから、かなり難しいひとなのではないか。ラルフは柔らかく表現しているけど、実は相当偏屈な、おっかない人物なのではないか…。

オクスマンさんの部屋の前に立ち扉をノックすると、中でぱたぱたと乾いた足音がして扉が開いた。扉の向こうに立っていたのは、身長154センチのわたしよりももっと小さいのではないかと思われるほど小柄で、大きな瞳にいたずらっぽい光をたたえたおじいさんだった。

「ハロー」

「ハロー」

にこやかに握手。オクスマンさんの瞳の中の光を見て(ホビット族だ)と思った。
 
*註 「ホビット」族は英国の童話作家トールキンの大叙事詩『ホビットの冒険』や『指輪物語』に登場する種族。小柄で朗らか、食べること、飲むこと、おしゃべりすること、楽しむこと、そしてこまめに働くのも好きな、楽しい一族。
 
「きみが、今度入居するひとだね。逢えてよかった」 そう云ってオクスマンさんは手を伸ばし、嬉しそうに握手してくれた。
「引越しは無事に運びそうかね? なにかあったら云ってくれたまえ」
 
 
摩天楼の街でも、見上げた空の表情に、天と地が繋がっていることをふと思い出す。


入居する前にがらんどうの部屋に通って、床やキッチンを掃除したり(清潔にしてくれていたけれど、自分の手で「拭く」ことで、何か安心できるのだ。儀式のようなものかもしれない)、窓の幅を巻尺で測って、カーテンを吊るすための横木を買ったりして準備をした。

引越しは、それまで何度かお世話になっている「引っ越し太郎」さんに手伝ってもらった。日本男子がやっている引越業者で、なにしろ速い、確実、壊さない。エレベーターの無い、つるつるすべる大理石の階段で上がるしかない六階のアパートへも、汗まみれになりながら荷物を運んでくれた強者集団である。三年ほどのあいだにあっちこっち引っ越ししていたのですっかり「おなじみ」になってしまった。いつものように時間通りに現れた彼らは、「あれ葉さん、また引っ越しですか。引っ越し好きですねえ」と云いながら、このときもまたせっせと働いてくれた。

引っ越しに当たっては管理人の「ベン」に連絡を取るように云われていた。引っ越しは週末ではなく平日にするように、とも。小さなエレベーターひとつしかないので、他の住人に迷惑がかからないようにするためらしい。

荷物を搬入するとき、はじめて管理人のベンと逢った。小柄なオクスマンさんと対照的に、ベンは大柄で、全体に「樽」、それもドイツの田舎の納屋あたりに転がっていそうな大きくどっしりした樽を思わせる。ごま塩の髪はこういっちゃなんだがだらしない感じに伸びて、何日かシャワーを浴びていないような汗の混じった埃っぽい気配が漂っている。

(トロルだ)
と思った。

「このエレベーターは見ての通り小さいぞ。お前の家具、ちゃんと入るのか」
質問、というよりは、咆哮、に近い話し方で、ベンはそう確かめるのだった。

住みはじめてみると、その部屋はやはり光がよく入る部屋で、気持ちがよかった。地上十階に住んだのははじめてだけれど、空に近いのも悪くない。小さなダイニングテーブルを置いた横の窓からは、隣の、たぶん四階建てくらいの建物の、屋上庭園が見える。住人の姿はあまり見ないけれど、よく手入れしているのだろう。幾本かの樹や灌木、春夏秋を通して色とりどりに花も咲く。よそさまの庭の借景で申し訳ないけれど、窓の外に草木花々があるのって気持ちが落ち着くものだ。

ハドソン川が近いせいか、十階の部屋の外にもいろんな鳥が来る。ニューヨークの旧いアパートには大抵、壁の外に非常階段がついていて、見事な青の羽毛に包まれたブルージェイなんかが、 その手すりのところにとまって囀ったりもする。また、姿は見えず名前もわからないけれど、複雑なフレーズの見事な歌を朗々と何度も歌う鳥もいた。


こちらは近所のハドソン川沿いの公園を散歩するロビンとホシムクドリのみなさん。


小さなエレベーターには奇妙な「癖」があった。五階や八階など、わが十階より下の階の住人と乗り合わせるにはまったく問題がないのだが、十階以上の階の住人と乗り合わせると妙な事が起こるのだ。自分ひとりで乗る場合は、すんなり十階に止まる。下の階の住人と乗り合わせるときも、まず下の階、それからわが十階に止まる。けれども十階より上の階の住人と乗り合わせると、まずは十階に止まるはずが、素通りして上に行ってしまうのだ。それも、「十階と十二階」の組み合わせなら十二階に最初に止まるかというとそうではなく、なぜか十一階に止まる。十三階の住人と乗り合わせたときも同じ。(そういえば、英語圏では「十三」という数を避けたりするのではなかったか。いままで気づかなかったけど、このアパートには十三階があって、それが最上階になっている。)

じゃあ、十階より上の住人と乗り合わせた時に「常に」十一階に止まるかというと、それもそうでもない。こちらが身構えていて、「このエレベーター、十階は素通りするんですよね〜」などと相手と話しているときに限って、きちんと十階に止まったりするのだ。

(緑のこびとがいる)
と思った。

「緑のこびと」というのは自分でなんとなく想像したこびとだけれど、おとぎ話のランペルスティルツキンみたいな存在で、意地悪はしないけれども特別ひとを助けるでもなく、他愛もない悪戯をしかけては「シ、シ、シ」と笑ったりするのだ。きっとやつら(単数なのか複数なのかよくわからないけど)が、「ちょっとだけ困らせちゃおう」と笑いながらこちらを困惑させているに違いない。


こびとの姿はまだ見たことがないけれど、ホビット族のオクスマンさんとトロル族のベンのやりとりはなかなか面白かった。オクスマンさんはほんとに小さくて、でも赤白の横太ボーダーTシャツなんか着こなして、いつも葉巻をくわえたダンディなお洒落さんなのだ。ベンはいつも数週間は洗っていないのでは(というか洗ったことがあるのか)という感じのデニムのシャツと大きなジーンズ。身体は二倍ほどもあるベンが、オクスマンさんのことを「ボス」と呼ぶ。地下のランドリー室の手前にはボイラールームが、奥には昔の住人が置いていったテーブルや椅子、十年以上前のものと思われる冷蔵庫や、何かの部品があちこちに収納された作業室がある。「ボス」は大工仕事も得意らしく、いつも旧いラジオをかけて、なにやら忙しげに働いていた。

オクスマンさんは猫が好きで、わが愛猫ひめひめのことも可愛がってくれた。大家といえども一旦部屋を借りたら勝手に入ってくることはできないから、いつも部屋にいるひめひめとオクスマンさんが顔を合わせるのは、ひめひめを病院に連れて行くときに偶然逢ったときくらいのものだったけれど、いつも立ち止まっては愛しそうに彼女を眺め、「このこはほんとうに良い猫だねえ」とほれぼれした感じで云うのだった。

「はい、これから病院に行くんですよ」と云うと、
(ああ、可哀相に)といった感じに顔をしかめ、
「きみも出費が大変だ」などと心配するのだった。


ありし日のひめひめ。


わたしは、地下のランドリールームや、近所でばったりオクスマンさんに出くわすのが好きだった。どうやら、ラルフが云っていた「頑固者」な部分は、「昔はかなりそうだった」ということで、近年はずいぶん角が取れてきたらしい。奥様と暮らしていること、どこかニューヨーク州の北部に家を持っているらしいこと、くらいしか知らなかったけれど、彼にはなにか(やはりホビット族だ)と思わせる、人生を心から楽しんでいるような飄々としたところがあった。

「そういえばきみ、入居する前にオクスマンさんに手紙を書いたんだって?」

ある日近所でラルフと逢ったとき、そう聞かれた。そうだと答えると、ラルフは嬉しそうに笑った。

「とても感心していたよ。入居前に手紙を書いてきたひとははじめてだって。礼儀がしっかりしているって」

正直いうとこちらも、入居前に大家さんに手紙を書いたのはあれがはじめてだった。ラルフが「頑固者」なんて云うもんだから緊張したのと、それと、あの部屋の空気には、そういった「旧式」なことをしたいと思わせるなにかがあったのだ。

ユダヤ系のひとびとはキリスト教と同じく旧約聖書を読むけれど、クリスマスは祝わない。代わりに、同じ時期にハヌカと呼ばれる祝祭がある。でもユダヤ系ではない自分が「ハッピー・ハヌカ!」と書くのもなんだか気が引けて、クリスマスの時期にはひめひめの写真を貼付けたカードを送った。数日後、郵便受けに「きみのところの、可愛い猫の写真をどうもありがとう」という手書きのメモが入っていた。

そんなこんなで瞬く間に数年が過ぎたある冬、ランドリーの三つの洗濯機のうち二つが故障して、住民がみんな困るという出来事があった。けれど二ヶ月しても三ヶ月しても直してくれない。洗濯したくても、夜中などを選ばないと、洗濯機がなかなか空かないのだ。困ったなあ、と思ってランドリールームをうろうろしていたら、ごみを捨てに居りてきた8階のツルマキさん(わたし以外に唯一の日本人)に会った。

「洗濯機がひとつしかなくて困りものね」

そうですね、と答えると、ツルマキさんは云った。

「オクスマンさんが病気らしいのよ」
 
author : watanabe-yo
| Living | comments(9) |

オクスマンさんの家  第一話

【2014.08.04 Monday 13:58
オクスマンさんと出逢ったのは、五年前の、夏のはじめのことだった。

「眺めのいい部屋」を探していた。「上西町」と自分が呼んでいる(一般的にはアッパーウエストサイドと呼ばれる)一角でいくつかの物件を見て、漸く出逢ったアパートだった。


(マンハッタンのアップタウンといえば、セントラルパーク。上西町に住むのが好きなのは、この公園に歩いて行ける距離で暮らしたいから、でもある。)


ハドソン川からほど近い静かな一角の、表に蔦の絡んだ細長い建物。通りの両側には街路樹が枝を伸ばし、碧のアーチを作っている。ドアマンもいない小さな建物は、六階建てまではエレベーター無しが多い。けれどこの建物はにょろりと十三階まであるのでいっぱしにエレベーターがついていて、前世紀初頭に造られたと思われる鳥かごのように小さなそれにガタゴト揺られ、十階に辿り着いた。

「ここだよ」

ラルフという名のブローカーが扉を開けてくれてその部屋に入ったとき、少しびっくりした。南に開いた大きな窓、高い天井。厨房とバスルームにも小さい窓がある。同じ様な家賃でずっと小さく暗い部屋をいくつか見てきたあとで、それは拍子抜けするくらい明るく、透明さを感じる空間だった。

なのに、なぜか、妙に自分の感覚に自信が持てなくて、即決出来なかった。引越では百戦錬磨なので「今更なにを…」と自分でも驚いたのだけれど、その頃は公私共々いろいろと不安定だったので、「居を移す」事に云い知れぬ不安を抱いていたのかもしれない。

ブローカーのラルフはとてもいい奴で、時間を割いていろいろ相談にのってくれた。おかげで、その部屋に引っ越す事でどんないいことがあり、どんな未知の要素があるのか、整理して考えることが出来た。

そうだね、この部屋に住みたいです。そう告げたらラルフは銀縁の眼鏡を指で押し上げ、(君のためにもいちばんいい決断と思う)と云いたげにかすかに微笑んだ。


(この界隈には、こんな昔ながらの家々、通称「タウンハウス」もある。これはこの界隈でも特に美しい家たち。)


ラルフによれば、大家のオクスマンさんは少し「頑固者」らしかった。

「叩き上げでやってきたひとだからね。相手を信頼するようになるまで時間がかかるんだ。僕もユダヤ系だけど、ユダヤ人のおじいさんにありがちな愛すべき頑固者ってことさ。信用してもらえるまでに時間がかかるんだ。だけど、彼は借家人を追い出そうと嫌がらせをしたり、理不尽なことはしない」

そうか、じゃあ第一印象が大切だな。入居準備をする前に、手紙を書いた。

「拝啓 オクスマンさん。
このアパートに入居できて愛猫と共に嬉しく思っています、お会いする機会を楽しみにしています」

引越の手筈を進める頃、ラルフから連絡があった。

「オクスマン氏は入居する前に一度、借家人と会うのを好むんだ。敷金の支払いついでに、数分だけ面接をしてもらえるかい?」

大家の顔を一度も見ずに過ごすことも多いのがニューヨークのアパート事情なので、これは珍しい要請だった。でも、家賃をやりとりする関係だって、人間関係だもの。まして我々は、彼の持ち物である建物を住居として暮らすのだから、一度だけでいいから顔を合わせておきたい、と考えるオクスマンさんの感覚は、納得がいく。

それにしてもオクスマンさんと十数年のつきあいだというラルフが「少々頑固者でね」というひと。どんなひとなんだろう…。オクスマンさんは、わたしが借りることになるアパートから程近い建物に住んでいるらしかった。そこはドアマンつきの立派な住居だった。勿論、賃貸のアパートではなくて、コンドミニアム(日本で云うマンション)なのだろう。

「オクスマンさんに面会の約束いただいています」とドアマンに告げると、世紀末のウィーンみたいな渋めだけれど華やかな金色に彩られた廊下の端の、エレベーターに乗るように云われた。ここは専用のエレベーターマンまでいるのだ。オクスマンさんが何階に住んでいるのか知らなかったけれど、彼の名前を云っただけでエレベーターマンはうなずいて、この街ではまだ見かける、手で回すタイプのハンドルをガラガラと回し、エレベータはぐんぐん上に昇っていった。

どんなひとなんだろう? 童話に出てくるような、髭を長く伸ばしてかぎ鼻の、眼光鋭い魔法使いか、独裁者みたいな髭を蓄えたちょっと怖いおじさん。そんな想像をしながら、オクスマンさんの部屋の前に立った。
 
author : watanabe-yo
| Living | comments(4) |


渡辺 葉
NY&NJ attorney
writer
translator
interpreter