桜をあとに | 葉的MANHATTAN☆HOUR
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桜をあとに

【2016.04.03 Sunday 21:51
桜の季節の日本で長い春休みをすごし、太平洋を横断して、米国東海岸へ向かう機内でこの手紙をしたためています。
 

 
こんなに長い休暇はいつ以来だろう。
日本に帰郷するときはいつも、限られた貴重な時間の中でどんなひとに会えるか、楽しみにしています。両親や弟家族とすごす時間はやはり最優先。幼かったころは、「いつも、みんな一緒」にいるのだと当たり前のように思っていたけれど。育った家を巣立ってみると、家族とすごす時間の有り難さは…掌にのせた桜の花びらのようです。物理的時間は容赦なくすぎていくけれど、心が受け取る「じかん」はせめて永遠に胸に刻もう…と思うばかり。

 
帰国するたびに会うともだちもいれば、今回の帰国時にはじめて対面したともだちもいるし、ずっと前に知り合ってから長い年月を経て再会したともだちもいました。会いたいと思いながら会えないひとも多いけれど、東京の街を歩きながら、「どうしているかな」と、ふと記憶が目の裏をよぎることも。生まれ育った土地にたまに帰郷するばかりの旅人には、そんな記憶も旅のごちそうだったりします。
 
「帰郷」

「帰国」


人生ってどう展開および転回するかわからないから、必ず、ということは言えないけれど、いまの自分にとって、「自分が住み、働き、生きる街」はニューヨークです。そういう意味では、ニューヨークに戻るといつも「ただいま」と思う。でも、自分が生まれ育った街、いまも親が暮らす街、東京にも「帰る」感覚はあって。「帰郷」や「帰国」という言葉は、切なく愛おしい感情を喚起させながらも、どこか、空を揺れるぶらんこのような「宙吊り」感をもって響いてきます。
 
もしかしたら、「帰るところ」という具体的な記憶や手応えをもつ概念に、「国」という抽象的な、直感的にはどうもピンとこない概念を重ねてしまう習慣に無理があるのかな?

 


 
長いこと訪ねたいと思っていた韓国訪問も叶いました。韓国への留学経験をもつ、日本で生まれ育った韓国籍の友人が寛大にも案内役を引き受けてくれたおかげで、短い旅のなかでもいろいろな韓国の表情に触れることができました。

 
驚いたのは、ソウルの街には日本語を話せるひとが多いこと。タクシーやお店など、経済的な便益が関係する場合だけでなく、地下鉄の駅やサウナ浴場のお客どうしなど、経済的な便益が関係ない場所においても、快く助けてくれたり、気軽に「どうしました」と声をかけてくれたりするひとに何人も出会いました。
 

おいしいものにもたくさん出会いましたよ。


韓国と日本の歴史を、自分は恥ずかしいほど知らないけれど、戦前の日本の半島支配や、関東大震災時のデマによって在日の韓国・朝鮮出身のひとびとに対する暴行や虐殺が行われたことなどは知っています。たまたま生まれついた「国」の同胞のひとびとが行った行為を後世の個々人が背負う「べき」かどうかは考えてしまうけれど、かといって「自分は関係ない」とは言えない。或る種、集合的に「受け継ぐ」責任といったものはあるのでは、と思います。そうでないと、アンフェアな状態が連鎖して負の遺産だけが残り、全体的に前に進むことができないもの。

(喩えれば、現代の米国に生きる個々人は南部の「奴隷制」を行ったわけではない。けれど、人種差別による不平等を是正していく責任は、社会全体、特にマジョリティである差別を受けない側が積極的に果たしていくべきである、というのに似ています。)


そんなこともあって、今回、韓国で出会ったひとびとがわだかまりもなくごくふつうに優しく助けてくれたことに、嬉しく驚いていました。
 

 
いちばん印象に残っているのは、景福宮。ソウル市内にある14世紀、李氏王朝の王宮跡です。山を背にした丘に建てられ、墨色の瓦を葺いた石塀に囲まれた古の王宮。ゆったりとしたおおらかな雰囲気が漂う優雅な建築物です。濠に囲まれた大きな高床式の御殿では、遠来の客をもてなす宴が開かれたとか。醤を入れた大きな甕の並ぶ一角は高い塀に囲まれ、美味しく醗酵した醤の大切さを物語っています。


飴色に光る木の床の廊下を、どんな美しい衣装をまとったひとびとが歩いたことだろう。その衣装は、この国のどこかで、誰かが凍えた手を温めながら織り、仕立てたものだっただろうか。夏の夜、ひとびとはこの王宮の一角で空を眺めただろうか。冬の朝、政(まつりごと)に伴う様々な駆け引きに血相変えたこともあっただろうか
…。


 

これは王宮の傍に展示された、昔の民家。チマチョゴリを着た女の子たちがひとやすみしていました。(彼女たちは日本語を話していましたよ。観光客が時代ものの衣装を着るの、見ていて楽しいね)


 
景福宮を出たあと、友人と「小腹が空いたね」と歩いていたら、なんだかいい感じの民家風の佇まいが…。
 

 
覗いてみると、くりくりした黒い目の女のひとが韓国語で話しかけてくる。

「れすとらん?」
と、とりあえずカタカナをひらがなにしたようなたどたどしさで聞いてみる我々。(韓国語を話せる友人は用事があって別行動していたので、韓国語の喋れないふたりで行動していたのでした。)

「ねー」

どうやらそうらしい。


「おーぷん?」

「ねー」 と、中の女性。
そうよ、どうぞいらっしゃい、と言ってくれているらしい。


日本語の「はい」は、韓国語では「ねー」というのですね。日本語の「エ」よりも少しだけ口を丸く開いたような感じの、おおらかな響きの言葉。言うひとも、聞くひとも、なんとなく笑顔になります。

通された部屋は窓から明るい光がふんだんに入り、壁には手作りらしい継ぎ布と刺繍の作品がかかっている。お箸(チョッカラ、という)は手に優しい黒い木のお箸。スプーン(スッカラ、という)は、少し金色がかった柔らかな白銀で、いい感じです。

席に着くと、銀色のコップにはいったお水と一緒に、湯気をあげているふかし芋が出されました。

「あぺたいざー」と、お店の女性。

これはまた素朴な前菜だなあ、と思いながら食べてみると、ほっこり、ねっとり美味しいふかし芋。実は芋類はあまり得意ではないのですが、これは美味しくてつい食べてしまう。

あれよあれよと言う間に、ひとくちサイズの三種のチヂミ、香ばしいにおいのチェプチェ、新鮮な野菜のナムルなどが並びはじめ




小さなお皿で出てくるし、ひとつひとつが美味しいし、「わぁ、これは美味しい」「これも美味しい!」と歓声をあげつつ、気がつくと我々の目の前には14種のお料理が並んでいたのでした。小腹どころかお腹がいっぱいになってしまったけれど、ここで食べたチェプチェはいままで食べた中でもいちばんのチャプチェでした。

 
韓国語を喋れる友人と合流してからは、他にも毎日、豊かで美味しいごはんをいただきました。(いろいろ写真をTwitterに掲載したので、よかったら見てね)

 
料理や言葉は日本のそれとは違うけれど、ニューヨークに暮らす者の観点からは、日本と韓国の往復の中では「異国にいる感じがしない」と強く感じていました。ソウル市内でも、明洞という一角はまるで新宿東口みたいだし、カロスギルという一角は青山か表参道のよう。異なる肌の色や髪の色が常に視界にあるニューヨークと違って、目に入るひとびとの風貌もよく似ているし。

大雑把な言い方だけれど、太平洋を越えた米国東海岸に視座の起点を移してみると、日本や韓国にいたら目に付く「差異」は「ほとんど同じ」に見えるのです。あはは…。


 

 
そしてまた、おおらかな空気の漂う美しい景福宮の真ん中に、瓦葺きの優雅な王宮づくりとは明らかに趣を異にする「朝鮮総督府」が置かれていたことを後から知って、驚きました。現在の韓国を日本が支配していた日帝時代のことです。喩えて言えば、皇居の真ん中に、あるいはベルサイユ宮殿の真ん中に、他の国が、様式もまるで違う、威圧的な、支配のための「監視所」をどかんと置くようなもの…。

(景福宮の真ん中に建てられた日本政府の「朝鮮総督府」は現在は撤去されていますが、その様子はこの写真展から見て取れます。でも、写真からは、ことの異様さが伝わらないかも...。現在の復元された景福宮に行ってみてから朝鮮総督府の写真を見ると、びっくりしますよ...。)

 

いま、日本で生まれ育つ世代が直接手を下したことではないにせよ、自分がこうした事実を知らなかったことに衝撃を受けました。同行した友人も知らなかったと言っていたし、歴史は好きな科目だったけれど、朝鮮半島支配についてはほとんど学んだ記憶がありません。


歴史的事実の解釈や責任の所在云々という議論の前に、自分が生まれ育った国と隣国諸国との歴史における客観的事実は、知っておいた方が実践的(practical)だし合理的(reasonable)だと思う。解釈がどうあれ、過去に起こったことについて少なくとも事実関係において共通の土台となる認識を持たなければ、意義ある形で現在の関係を築くこともできないから。(でないと、相互の認識の違いを再確認するところから話し合いを始めなければならず、「前置き」のところで議論がこんがらがって、お互いに有意義な話し合いができなくなってしまう。)

 
 
韓国から戻ってから、崔昌華(チョエ・チャンホア)という、在日韓国人牧師の伝記を読みました。この方の数奇で激しく、理想と情熱に満ちた生き方については、この本を読んでいただくのがいちばんだと思います。けれどもわたし自身、自分が生まれ育った日本という国のこと、戦前・戦後にどんなことが行われていたか、こんなにも知らなかった、ということに驚きました。

日本と韓国の関係について、また韓国・朝鮮出身の祖先をもち日本に生まれたいわゆる「在日」の方々の直面しておられる労苦や問題について、自らの言葉で語れるほどの知識をわたしは持ち合わせていないのだけれど、知らないことがまだたくさんあるのだ、と改めて思いました。

(ちなみに、今回、韓国へは友人ふたりと一緒の三人旅行だったのですが、三人とも日本で生まれ育ちながら、パスポートは日本、韓国、米国と三者三様だったのです。)

 
 
ひとは、「国」というものを、どう捉えるのが、よいのだろう? 

それはひとそれぞれに違うのだろうとも思うけれど、自ら好んで「国」と自分を重ね合わせるひとはともかく、自らがそういった「国」とのつきあいかたを選ぶわけではないのに、「国」という概念の縛りによって辛い生き方を強いられるとしたら、それは本来、望ましい「ひと」と「国」との関係なのだろうか。

 

わたしが米国に渡ったのも、日本とは成り立ちや構成の違う土地で暮らすことで、「国」という概念の内容と有効性についてもっと知り、考えたいと思ったことも、動機のひとつでした。自分自身、生まれ育ったのは日本だけれど、もう「わたしは日本人です」とは言わない。「日本で生まれました」と言います。

 

 
日本という、自分が生まれ、育ち、いまも家族が住む国。
東京という、よく知っているようで、もうあまり知らない、懐かしさと新しさの混在する街。


米国という、自分が選んで渡り、そこでこそ活きるキャリアを築き、暮らす国。
ニューヨークという、そこにいるだけで「ここにいてよかった」と思える、大好きな街。


そんな土地を行ったり来たりしながら、今回は韓国という、日本とよく似た(と、自分には思える)国を訪ね、いまのところ、やっぱり、こう思う。


「ひと」は「ひと」。
どの国のひとだからこう、という決まった図式はない。



「帰るところ」は、きっと、具体的な地名である必要はないんだ。それはきっと「会いたいひと」がいる場所であり、自分の芯のところが「ほっ」とできる場所であり。
 

桜の季節には桜のモチーフが溢れること、実をいうと少し「うーん、おなかいっぱいだな」という感じもときどき抱いてしまうのです。ワカルカナ? 


といいながらも、太平洋の上を飛びながら、桜の咲く姿あれこれが脳裏をよぎっています。

こどものころ、小学校の校庭に咲いていた桜。

高校のころ、この季節になると毎日歩いた、隣接する大学の桜並木。

今回の帰国中、三月初めはまだ寒くて、タクシーの中から見た赤坂御所の夜桜。

日本を出発する前日、中野通りの手前で、どこかの校庭を彩っていた満開の桜。


その時々で、自分は変わっていく。ともに時刻(とき)を過ごすひとたちも。思うことも。「あなた」と「わたし」、「きみ」と「ぼく」のあいだに、流れるものも。


それでも変わりゆく流れゆく年月のなか、桜が咲くころ、あの花を見ると、自分のなかに還ってくるものがある。「おかえり」と「ただいま」を両方言いたいような感じがする。桜をあとに、桜を胸に、海の向こうの街へ「帰り」ます。
 

また、アジアにも「帰る」ね。今度はどんな季節に、会えるかな?


 
author : watanabe-yo
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この記事に関するコメント
葉さま。
素敵な一休みされたようですね〜&#9835;
有り難さは…掌にのせた桜の花びらのよう…
なんて美しい表現…ウルウルしてしまいました。
すべては当たり前にあるものではありませんね。一期一会。

素敵なお隣さんやおいしい食べ物にも出会えたようで
自分も一緒に旅してる気分になれました。
(食べ物の写真でよだれが口の中にたまって困った。あはは)

そうして、また今の葉さんの場所である街へ…
葉さん、頑張るのもいいけれど、お体も大切にしてくださいね。
「いってらっしゃい。葉さん。」
| EIKI | 2016/04/05 10:35 PM |
EIKIさん、さっそく読んでくださりありがとうございます! 
ゆっくり羽を伸ばしてきましたよ〜
まだ伸ばしてるけど〜(新着記事参照)
この長い春休みが終わったら、がんばってバリバリ働きます!
いつも応援の言葉をくださって、ありがとう〜&#128157;
| 葉 | 2016/04/08 10:12 PM |
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渡辺 葉
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