はじめまして、2017年 | 葉的MANHATTAN☆HOUR
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はじめまして、2017年

【2017.01.02 Monday 15:15

2017年が明けました。「おめでとう」と書く前に少しためらっている自分がいます。それは昨年11月の米国大統領選挙における不幸な結果(これについては後述します)や、世界で台頭している不寛容なメンタリティのせいなのだけれど…
「おめでとう」って言葉にふさわしい年になるといいな。


自分は75億人の世界市民の、75億分の1にすぎない。でも75億分の1がひとりひとり明日から喫煙を始めたら世界中は煙で煙くてたまらなくなるし、あるいはひとりひとりがゴミを拾うようにしたら世界中の道路はきっと綺麗になる。75億分の1「だけ」って考えたら非力に思えるかもしれないけど、それでも自分は世界の「一部」なのであって、「傍観者」じゃない。自分だって、世界を変える力になれる。うん、
「おめでとう」って言葉にふさわしい年にしよう!!


<私的2016年>
時間とは、心の中で起こるものである。
4世紀の宗教家、ヒッポのアウグスティヌスはそう考えたそうです。例えば「万物を創造した、神」と口に出していうとき、「万物」という言葉を発している時間は、「神」という言葉を発している時間より長い。と、思いますよね? でも実際には自分の口は一つで、同時に二つの言葉を発しているわけじゃない。それに「ば・ん・ぶ・つ」の「つ」を言い終わる頃には、前の音節、「ば」も「ん」も「ぶ」も宇宙のどこかに消えている。音を、それを発していた時間をつなぎとめておけるわけじゃない。


これは『ザ・ニューヨーカー』誌のAlan Burdick氏の記事で読んだことですが、「時間の感覚は心理的なもの」というのは、誰にもうなずける経験があるのでは? 誰かや何かを待っている時の「長い」時間や、好きな人と過ごす時間の「短さ」。逆に言えば、その時間を「長い」と感じるか「短い」と感じるかによって、自分のその時の有り様を振り返ることもできそうですね。
2016年は、自分にとっては長くもあり短くもあり。確実に言えるのは「てんこ盛り」の一年でした…。


2016年の1月は家にこもって毎日、司法試験準備。朝6時前に起床して、顔を洗うのもそこそこにすぐ勉強を始め、夜12時過ぎに就寝。頭がフル回転しているのであまり眠くはなかったのですが、身体のコンディショニングを考え、メラトニンという副作用のないサプリを少量摂取して頭と身体を休めるようにしていました。


2月末にニューヨーク州とニュージャージー州の司法試験。心おもむくままいろいろなものに挑戦してきた人生とはいえ、やはり一番の試練と思えました…。(もし落ちたらまた挑戦するだけ、とは思っていましたが。)


試験後はとにかく頭を切り替えたくて、ほぼ一ヶ月日本へ。在日コリアンの友人が親切にも一緒に行ってくれたおかげで初の韓国訪問も叶いました。米国在住の目から見るとソウルの街って日本とそんなに変わらなくて、やっぱり近い「兄弟姉妹」な関係なんだなと思いました。(ところで「同じ親から生まれたこどもたち」って日本語では性別や年齢を意識しないと表現できないけれど、英語ではsiblingという年齢にも性別にもニュートラルな言葉があります。そういう言葉が日本語にもあったらいいのにな〜と時々思います。余談。)

4月にはもうちょっと遊んでおきたくて、十年ぶりにフランスへ。パリの左岸をぶらぶら散歩したり、友人が途中から加わって、二人でブルターニュへ旅したり。目の前に海が広がるホテルのバルコニーで、暗闇のなか押し寄せる波の白い波頭を眺めながら、ワインを飲みながら、夜遅くまでおしゃべりしていました。この旅は「飛ぶ時間」のように過ぎて行ったけれど、でも、ある意味、この旅の中で自分が通り過ぎた時間は「永遠」に心の中に刻まれていると思う…。

(フランス旅の話は、途中までこのブログに書いたけれど、ブルターニュ旅のことは書いていませんでした。今年は旅の思い出話しも書けるといいなあ。)

ニューヨークに戻り、4月末に司法試験合格の報せが。これまでの数年間も司法関係の仕事をしてきたのですが、これでやっと弁護士としての就職活動開始です。知人の薦めもあってある事務所に応募。面接までにすごい時間がかかり、8月から仕事始め決定。
ただ(詳述は避けますが)入ってみて「あ、違う」と感じたので、別の事務所に移ろうと考え始めました。とはいえ物事は「自分の時間」で進むとは限らない。心はやる場合は特にそうですね。漸く11月初旬に新職場からオファーがあり、移ることができました。新職場で一ヶ月余働いてみて、現在のところは「これでよかった」と思います。ただ、仕事の内容はもっと挑戦が欲しい、もっと難しい仕事がしたい…。


とはいえ、日々いただく仕事は頭を使える仕事だし、夢中になって思わず残業ということもしばしば。仕事をただ当面のために「こなす」のではなく、その案件全体という文脈や、社会という文脈、また自分がこの惑星で与えられた時間という文脈の中で意義あるものと捉えながら結実させていきたい、と考えています。


<米国の2016年と、これから>
2016年の米国大統領選挙。英国の欧州連合離脱に続いて「まさか」の出来事でした。

(ぎゃ〜っ! まさかこんなことになるとは!!)

 

ただ、大統領選挙の結果は、現行の方式を知ってみると疑問も多いのです。最大の疑問は「選挙人」制度の、現行のやり方。「おかしい」「当初の目的から外れている」という声が米国内でも上がっているので、変わっていくといいけど(でも現行方式は共和党だけに有利なので彼らは死守するだろう…フェアネスも何もあったものではない。)
ざっくり説明すると、大統領選挙は直接選挙ではない。(でも投票用紙には各党からの候補者の名前が書いてあるのでそれにマークをつけるのですが。)


基本は、各州で、その州に割り当てられた下院議員の数と上院議員の数の合計数の「選挙人」を選びます。でもこれらの選挙人は我々投票者が選ぶのではありません。政党の党大会など一般にはよく見えないプロセスで、選挙民の票と無関係に選ばれているのです。合衆国憲法第二条で「各州に選挙人をおく」ことを定めてはいますが、各政党が選ぶなんて一言も書かれていません。各州の自治に任されています。各政党が選ぶようになったのは、19世紀になってからの話。ある種の妥協の産物なのです。各州での選び方はまちまちで、有権者からは目に見えないところで、二党制政治の内部で、有権者の知らない選挙人が選ばれています。
選挙人の人数も実は変。合衆国憲法では、各州の選挙人の数は、各州の下院議員の人数と上院議員の人数を足したもの、となっています。下院議員の人数は「ある程度」その州の人口に基づいている(でも完全に人口比に比例して決められているわけではない)のですが、上院議員はどの州も二人と決まっています。なので、人口の少ない州に異常に有利というわけ。有権者一人の「一票の重み」を比べてみると、例えば、過疎化しているワイオミング州民の一票の重さは、人口の多いカリフォルニア州民の一票の3.6倍の威力を持っています。合衆国全体への経済貢献度では、カリフォルニアの方がはるかに貢献しているのにも関わらず。ニューヨーク、ロサンジェルス、シカゴ、ボストン、サンフランシスコなど大都市のある地域には様々な背景を持つ人々が集まるためリベラルな気風が強く民主党支持者が多いのですが、中西部には西部開拓時代に住み着いた白人コミュニティがずっと残っていて、そういう層は伝統的に共和党支持者が多いのが現状です。人口の少ない州の方が不均衡に「多くの」選挙人を持つことができるので、国民の一票の重みが過疎地に有利なように歪められています。


なぜ米国憲法はそんな制度を作ったのか? 現行の合衆国憲法制定は1787年。まだ独立して間もない、そして各州がバラバラに自治をしていた頃に「建国の父」と言われた代表たちが会議を繰り返し、英国の力や欧州列強の介入の陰に怯えながら、奴隷経済に頼っていた南部と、奴隷制を非人道的だと考える北部の対立の中で試行錯誤のプロセスの中で作られたのが現行の憲法でした。それまでの世界にはなかった「民が選ぶ」代表という考え方、専制君主の台頭を妨げるために考え出した議会と大統領府、司法の三権分立など素晴らしい仕組みが出来上がったものの、現代のように人々がいろんな候補者の意見を聞く手段などありませんでした。情報も教育も、今のように多くの人の手に届くものではなかったのです。人口の多い州の州民が「身内びいき」をしないように、地域のミクロな便益ではなく国としてのマクロな便益を代表する人を選ぶよう、ある程度マクロな視点で見られるような選挙人に票を託す…そんな狙いがあった作られたもので、「その州で一票でも多く票を得た候補者に、その州の選挙人の票を全部入れる」なんて、憲法には一言も書かれていないし、二党制の妥協として各州で採用している現在のやり方を認める最高裁判断もありません(判断の領域として難しいものなのでそもそも最高裁は審理を避けるタイプの問題とも言えます)。


思わず選挙人制度について細かく語ってしまいましたが…。トランプの人となりからは、典型的な「ナルシシスト」、それもかなり幼児的な類の自己愛と承認要求から抜け出していない様子が見て取れます。トランプが「当選」して以来、人種を筆頭とするいろんな差別や、それを動機とした暴力事件がこのニューヨークでさえも多発しているし、白人優位主義者の集まりで黒人を肌の色だけでリンチし、殺したりしたKKKという極悪組織がトランプ支持を表明したりしているし。
肌の色が違うこと、見た目が違うこと、生まれた場所が違うこと、信じる宗教が違うこと、、違うことを理由に誰かを排除する、そんな世界にしたくない。


<自分らしくいるために>
そんな折、ある新聞の「相談コーナー」にこんなやりとりが載っていました。

(以下、抄訳)
質問:自分は性別を変えたいというほどではないのですが、女性的な男です。女性のように振る舞う男についてどう思いますか? 時々、自分は神様に愛されていないのかな、変わらなきゃいけないのかなと思うのです…今のこんな自分が自然な自分なのに。


答え:もし変わるべきと助言するとしたら、理由はただ一つ。変わらないことで貴方自身が辛い思いをする場合です。例えば、化粧をしていて、それを理由に誰かにしょっちゅう殴られる、とか。どうぞ安全でいてください。自分の身を守るために。
でも、他の人に気に入られるために変えようと思うなら、そんなの必要ないですよ。世界は、典型的に女性っぽいとされる振る舞いをする男性や、典型的に男性っぽいとされる振る舞いをする女性を必要としているんです。なぜかって? そういう人たちは我々みんなに、みんなも、本当の自分自身といういろんな可能性を生きてもいいんじゃないかって気づかせてくれるからです。
きみのような人は、社会のヒーローなんですよ。「ひと」として生きることがどんなことか、典型なんかを超えて、より豊かな気づきと理解へ、我々を導いてくれるからです。
わたしがこどもの頃、学校で「適正テスト」がありました。内容は男女同じです。でもテスト結果に基づく推薦は、男子は青い紙、女子はピンクの紙に書いてありました。我々男子には医者やエンジニア、パイロット、弁護士、科学者などワクワクするような可能性が書いてありました。でも女の子たちには、三つの可能性のどれか、しかありませんでした。看護婦、秘書、学校の先生です。同じテストを受けていても、女子には可能性が開かれていないと、1970年代のカリフォルニア州では考えられていたんです。
我が若い友人よ。きみは、こんな風に長いこと人々が固執してきた、ひとを貶めるような、残酷でいやらしいステレオタイプを乗り越えて我々みんなを自由と可能性へ導いてくれる大きな流れの一部なんです。それぞれのひととしての自由という翼を生やすことで、我々みんなやこどもたちにもより良い未来を作る動きを担っているんです。きみがきみらしくある、そんな勇気を持つこと。それだけできみは、どんな振る舞いだって、考え方だって、自然に湧きおこる感覚だって、「男性的」「女性的」とどちらかに振り分けきれない、どんなものにも女性性と男性性の両方が含まれていると、教えてくれているんですよ。
そんな気づきをくれるから、わたしや他の正気なひとたちはきみやきみのようなひとがいてくれてありがたい、と思うんです。神様がきみを好きかどうかなんて心配しなくていいんですよ。だって、聖書によれば神はアダムとイブの両方を自分のイメージの中で作り上げたと書いてありますよね。つまり、神様はきみを好きなだけじゃない、きみがいて本当に素晴らしいと喜んでいると思いますよ。神が彼だろうが彼女だろうが、それ以外にどう感じているでしょう?
美しい豊かな色彩で絵を描いたら、それを白と黒の世界に押し込めたいですか? そんなことありませんよね。豊かな色彩で輝いて欲しい、そう思うでしょう。
(以上、抄訳でした)


さまざまな色を含むからこそ空は美しい。自由な心で、自分らしくいるってことを、「違う」からこそ素晴らしいのだということを、この惑星に居られるうちに、もっと知り、分かち合っていきたいな。

author : watanabe-yo
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渡辺 葉
NY&NJ attorney
writer
translator
interpreter