葉的MANHATTAN☆HOUR
桜をあとに

【2016.04.03 Sunday 21:51
桜の季節の日本で長い春休みをすごし、太平洋を横断して、米国東海岸へ向かう機内でこの手紙をしたためています。
 

 
こんなに長い休暇はいつ以来だろう。
日本に帰郷するときはいつも、限られた貴重な時間の中でどんなひとに会えるか、楽しみにしています。両親や弟家族とすごす時間はやはり最優先。幼かったころは、「いつも、みんな一緒」にいるのだと当たり前のように思っていたけれど。育った家を巣立ってみると、家族とすごす時間の有り難さは…掌にのせた桜の花びらのようです。物理的時間は容赦なくすぎていくけれど、心が受け取る「じかん」はせめて永遠に胸に刻もう…と思うばかり。

 
帰国するたびに会うともだちもいれば、今回の帰国時にはじめて対面したともだちもいるし、ずっと前に知り合ってから長い年月を経て再会したともだちもいました。会いたいと思いながら会えないひとも多いけれど、東京の街を歩きながら、「どうしているかな」と、ふと記憶が目の裏をよぎることも。生まれ育った土地にたまに帰郷するばかりの旅人には、そんな記憶も旅のごちそうだったりします。
 
「帰郷」

「帰国」


人生ってどう展開および転回するかわからないから、必ず、ということは言えないけれど、いまの自分にとって、「自分が住み、働き、生きる街」はニューヨークです。そういう意味では、ニューヨークに戻るといつも「ただいま」と思う。でも、自分が生まれ育った街、いまも親が暮らす街、東京にも「帰る」感覚はあって。「帰郷」や「帰国」という言葉は、切なく愛おしい感情を喚起させながらも、どこか、空を揺れるぶらんこのような「宙吊り」感をもって響いてきます。
 
もしかしたら、「帰るところ」という具体的な記憶や手応えをもつ概念に、「国」という抽象的な、直感的にはどうもピンとこない概念を重ねてしまう習慣に無理があるのかな?

 


 
長いこと訪ねたいと思っていた韓国訪問も叶いました。韓国への留学経験をもつ、日本で生まれ育った韓国籍の友人が寛大にも案内役を引き受けてくれたおかげで、短い旅のなかでもいろいろな韓国の表情に触れることができました。

 
驚いたのは、ソウルの街には日本語を話せるひとが多いこと。タクシーやお店など、経済的な便益が関係する場合だけでなく、地下鉄の駅やサウナ浴場のお客どうしなど、経済的な便益が関係ない場所においても、快く助けてくれたり、気軽に「どうしました」と声をかけてくれたりするひとに何人も出会いました。
 

おいしいものにもたくさん出会いましたよ。


韓国と日本の歴史を、自分は恥ずかしいほど知らないけれど、戦前の日本の半島支配や、関東大震災時のデマによって在日の韓国・朝鮮出身のひとびとに対する暴行や虐殺が行われたことなどは知っています。たまたま生まれついた「国」の同胞のひとびとが行った行為を後世の個々人が背負う「べき」かどうかは考えてしまうけれど、かといって「自分は関係ない」とは言えない。或る種、集合的に「受け継ぐ」責任といったものはあるのでは、と思います。そうでないと、アンフェアな状態が連鎖して負の遺産だけが残り、全体的に前に進むことができないもの。

(喩えれば、現代の米国に生きる個々人は南部の「奴隷制」を行ったわけではない。けれど、人種差別による不平等を是正していく責任は、社会全体、特にマジョリティである差別を受けない側が積極的に果たしていくべきである、というのに似ています。)


そんなこともあって、今回、韓国で出会ったひとびとがわだかまりもなくごくふつうに優しく助けてくれたことに、嬉しく驚いていました。
 

 
いちばん印象に残っているのは、景福宮。ソウル市内にある14世紀、李氏王朝の王宮跡です。山を背にした丘に建てられ、墨色の瓦を葺いた石塀に囲まれた古の王宮。ゆったりとしたおおらかな雰囲気が漂う優雅な建築物です。濠に囲まれた大きな高床式の御殿では、遠来の客をもてなす宴が開かれたとか。醤を入れた大きな甕の並ぶ一角は高い塀に囲まれ、美味しく醗酵した醤の大切さを物語っています。


飴色に光る木の床の廊下を、どんな美しい衣装をまとったひとびとが歩いたことだろう。その衣装は、この国のどこかで、誰かが凍えた手を温めながら織り、仕立てたものだっただろうか。夏の夜、ひとびとはこの王宮の一角で空を眺めただろうか。冬の朝、政(まつりごと)に伴う様々な駆け引きに血相変えたこともあっただろうか
…。


 

これは王宮の傍に展示された、昔の民家。チマチョゴリを着た女の子たちがひとやすみしていました。(彼女たちは日本語を話していましたよ。観光客が時代ものの衣装を着るの、見ていて楽しいね)


 
景福宮を出たあと、友人と「小腹が空いたね」と歩いていたら、なんだかいい感じの民家風の佇まいが…。
 

 
覗いてみると、くりくりした黒い目の女のひとが韓国語で話しかけてくる。

「れすとらん?」
と、とりあえずカタカナをひらがなにしたようなたどたどしさで聞いてみる我々。(韓国語を話せる友人は用事があって別行動していたので、韓国語の喋れないふたりで行動していたのでした。)

「ねー」

どうやらそうらしい。


「おーぷん?」

「ねー」 と、中の女性。
そうよ、どうぞいらっしゃい、と言ってくれているらしい。


日本語の「はい」は、韓国語では「ねー」というのですね。日本語の「エ」よりも少しだけ口を丸く開いたような感じの、おおらかな響きの言葉。言うひとも、聞くひとも、なんとなく笑顔になります。

通された部屋は窓から明るい光がふんだんに入り、壁には手作りらしい継ぎ布と刺繍の作品がかかっている。お箸(チョッカラ、という)は手に優しい黒い木のお箸。スプーン(スッカラ、という)は、少し金色がかった柔らかな白銀で、いい感じです。

席に着くと、銀色のコップにはいったお水と一緒に、湯気をあげているふかし芋が出されました。

「あぺたいざー」と、お店の女性。

これはまた素朴な前菜だなあ、と思いながら食べてみると、ほっこり、ねっとり美味しいふかし芋。実は芋類はあまり得意ではないのですが、これは美味しくてつい食べてしまう。

あれよあれよと言う間に、ひとくちサイズの三種のチヂミ、香ばしいにおいのチェプチェ、新鮮な野菜のナムルなどが並びはじめ




小さなお皿で出てくるし、ひとつひとつが美味しいし、「わぁ、これは美味しい」「これも美味しい!」と歓声をあげつつ、気がつくと我々の目の前には14種のお料理が並んでいたのでした。小腹どころかお腹がいっぱいになってしまったけれど、ここで食べたチェプチェはいままで食べた中でもいちばんのチャプチェでした。

 
韓国語を喋れる友人と合流してからは、他にも毎日、豊かで美味しいごはんをいただきました。(いろいろ写真をTwitterに掲載したので、よかったら見てね)

 
料理や言葉は日本のそれとは違うけれど、ニューヨークに暮らす者の観点からは、日本と韓国の往復の中では「異国にいる感じがしない」と強く感じていました。ソウル市内でも、明洞という一角はまるで新宿東口みたいだし、カロスギルという一角は青山か表参道のよう。異なる肌の色や髪の色が常に視界にあるニューヨークと違って、目に入るひとびとの風貌もよく似ているし。

大雑把な言い方だけれど、太平洋を越えた米国東海岸に視座の起点を移してみると、日本や韓国にいたら目に付く「差異」は「ほとんど同じ」に見えるのです。あはは…。


 

 
そしてまた、おおらかな空気の漂う美しい景福宮の真ん中に、瓦葺きの優雅な王宮づくりとは明らかに趣を異にする「朝鮮総督府」が置かれていたことを後から知って、驚きました。現在の韓国を日本が支配していた日帝時代のことです。喩えて言えば、皇居の真ん中に、あるいはベルサイユ宮殿の真ん中に、他の国が、様式もまるで違う、威圧的な、支配のための「監視所」をどかんと置くようなもの…。

(景福宮の真ん中に建てられた日本政府の「朝鮮総督府」は現在は撤去されていますが、その様子はこの写真展から見て取れます。でも、写真からは、ことの異様さが伝わらないかも...。現在の復元された景福宮に行ってみてから朝鮮総督府の写真を見ると、びっくりしますよ...。)

 

いま、日本で生まれ育つ世代が直接手を下したことではないにせよ、自分がこうした事実を知らなかったことに衝撃を受けました。同行した友人も知らなかったと言っていたし、歴史は好きな科目だったけれど、朝鮮半島支配についてはほとんど学んだ記憶がありません。


歴史的事実の解釈や責任の所在云々という議論の前に、自分が生まれ育った国と隣国諸国との歴史における客観的事実は、知っておいた方が実践的(practical)だし合理的(reasonable)だと思う。解釈がどうあれ、過去に起こったことについて少なくとも事実関係において共通の土台となる認識を持たなければ、意義ある形で現在の関係を築くこともできないから。(でないと、相互の認識の違いを再確認するところから話し合いを始めなければならず、「前置き」のところで議論がこんがらがって、お互いに有意義な話し合いができなくなってしまう。)

 
 
韓国から戻ってから、崔昌華(チョエ・チャンホア)という、在日韓国人牧師の伝記を読みました。この方の数奇で激しく、理想と情熱に満ちた生き方については、この本を読んでいただくのがいちばんだと思います。けれどもわたし自身、自分が生まれ育った日本という国のこと、戦前・戦後にどんなことが行われていたか、こんなにも知らなかった、ということに驚きました。

日本と韓国の関係について、また韓国・朝鮮出身の祖先をもち日本に生まれたいわゆる「在日」の方々の直面しておられる労苦や問題について、自らの言葉で語れるほどの知識をわたしは持ち合わせていないのだけれど、知らないことがまだたくさんあるのだ、と改めて思いました。

(ちなみに、今回、韓国へは友人ふたりと一緒の三人旅行だったのですが、三人とも日本で生まれ育ちながら、パスポートは日本、韓国、米国と三者三様だったのです。)

 
 
ひとは、「国」というものを、どう捉えるのが、よいのだろう? 

それはひとそれぞれに違うのだろうとも思うけれど、自ら好んで「国」と自分を重ね合わせるひとはともかく、自らがそういった「国」とのつきあいかたを選ぶわけではないのに、「国」という概念の縛りによって辛い生き方を強いられるとしたら、それは本来、望ましい「ひと」と「国」との関係なのだろうか。

 

わたしが米国に渡ったのも、日本とは成り立ちや構成の違う土地で暮らすことで、「国」という概念の内容と有効性についてもっと知り、考えたいと思ったことも、動機のひとつでした。自分自身、生まれ育ったのは日本だけれど、もう「わたしは日本人です」とは言わない。「日本で生まれました」と言います。

 

 
日本という、自分が生まれ、育ち、いまも家族が住む国。
東京という、よく知っているようで、もうあまり知らない、懐かしさと新しさの混在する街。


米国という、自分が選んで渡り、そこでこそ活きるキャリアを築き、暮らす国。
ニューヨークという、そこにいるだけで「ここにいてよかった」と思える、大好きな街。


そんな土地を行ったり来たりしながら、今回は韓国という、日本とよく似た(と、自分には思える)国を訪ね、いまのところ、やっぱり、こう思う。


「ひと」は「ひと」。
どの国のひとだからこう、という決まった図式はない。



「帰るところ」は、きっと、具体的な地名である必要はないんだ。それはきっと「会いたいひと」がいる場所であり、自分の芯のところが「ほっ」とできる場所であり。
 

桜の季節には桜のモチーフが溢れること、実をいうと少し「うーん、おなかいっぱいだな」という感じもときどき抱いてしまうのです。ワカルカナ? 


といいながらも、太平洋の上を飛びながら、桜の咲く姿あれこれが脳裏をよぎっています。

こどものころ、小学校の校庭に咲いていた桜。

高校のころ、この季節になると毎日歩いた、隣接する大学の桜並木。

今回の帰国中、三月初めはまだ寒くて、タクシーの中から見た赤坂御所の夜桜。

日本を出発する前日、中野通りの手前で、どこかの校庭を彩っていた満開の桜。


その時々で、自分は変わっていく。ともに時刻(とき)を過ごすひとたちも。思うことも。「あなた」と「わたし」、「きみ」と「ぼく」のあいだに、流れるものも。


それでも変わりゆく流れゆく年月のなか、桜が咲くころ、あの花を見ると、自分のなかに還ってくるものがある。「おかえり」と「ただいま」を両方言いたいような感じがする。桜をあとに、桜を胸に、海の向こうの街へ「帰り」ます。
 

また、アジアにも「帰る」ね。今度はどんな季節に、会えるかな?


 
author : watanabe-yo
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旅の途中に。

【2016.03.03 Thursday 21:07

司法試験が終わりました。結果はまだ先にならないと判りません。
でもね、今回は、どうかなあ。全力を出せれば射程内だと思う、というところまでは来た。でも、その全力が出せなかったのです。試合って「慣れ」もある。はじめてのことが重なって、生まれてはじめてというほど酷い、吐き気を伴う頭痛にも悩まされたりして、自分でも判るミスをしてしまった。できた部分もあるけれど、できなかった部分もある。そして、たぶん、全部できていないと、今回は難しいんじゃないかな。


自宅で毎日勉強しながら、数日に一度は少し外を歩く。自律と抑制の毎日。
そういう毎日も、実は、好きだったりする。


 
ニューヨーク州の試験の厳しさは想像以上でした。厳しい要素はいろいろあるのだけれど、そのひとつは試験科目の多さです。しかも、ロースクールで必須の項目(憲法とか刑法、契約法など)の試験ならよいのですが、よほど興味がなければ履修しないような州に特化した法についてもかなり細かく学び、小論文が書けるレベルまで法を熟知しなければならないのです。現在いろいろ司法試験の制度が変わっている最中なのですが、自分が受けた時点でニューヨーク州では合計20余の法律分野の細かな知識が要求されました。


これ、他の州では全然違うのです。お隣のニュージャージー州は基本の7科目(憲法、契約法、財産法、不法行為法、刑法、刑事訴訟手続、民事訴訟手続)だけ。小論文の難易度もはるかに優しい。でもなぜか受験料は3倍以上の高さ。なぜだ…。


試験準備コースの参考書と自分で付け足して使っていた参考書たち。
要点をまとめる「アウトライン」を教科ごとに作ります。
勉強中はお風呂にも、ベッドの中にもこれを持ち込んで、起きている時間のすべてを使っていた。


 
試験会場は巨大な室内競技場で、陸上競技のフィールドの中(!)に、どわーっと机が並び、あらかじめ割り振られた席で受験します。プラスチックの椅子が固くてお尻が痛かった。持ち物にもとても厳しくて、バッグや携帯電話の持ち込みは厳禁。本やノートも厳禁。持って入ってよいものは、2Bの鉛筆、消しゴム、アナログの腕時計、包み紙から出して透明な袋に小分けしたスナック(飴とかドライフルーツとか。でも包み紙に入っていたらだめ)、水のボトル(あらかじめラベルをはがして何も書いてない状態にしたもの)、薬。これらを、1リットル入りの透明ジップロック袋に入れて持ち込みます。


ティッシュを持っていっていいのか問い合わせたら「ダメ」。なんでも、ティッシュに何か書いて持ち込もうとしたひとがいたとか…。でもそんな付け焼刃で対応できるような情報量じゃないのですが...。


お昼は買いに行っている時間なんてないし、作っている余裕もないから、前の日にサンドイッチを買って、これもやはり包み紙をはがしてラップで包みなおして持って行きました。昼休み中は机の並ぶフィールド内は立ち入り禁止になるので、ぐるりと囲む観客席で、自分たちの「戦場」を眺めながらもそもそとサンドイッチを頬張る…。贅沢を言っている暇はないのです。


試験内容は、種類も範囲も難易度も州によって違いますが、ニューヨーク州の場合は四部構成になっています。


1)全国共通の(といっても、この試験を使うかどうかは各州が決める)四択問題、6時間。科目は憲法、契約法、財産法、不法行為法、刑法、刑事訴訟手続、民事訴訟手続、証拠法。これはかなり細かく難しい。 200問を6時間で解くので、一問につき費やせる時間は145秒程度。数段落に及ぶ長文の問題もあるので読み直す時間はほとんどなく、確実に細部まで読みこなし、引っかけ問題多発の選択問題をこなしていかなければなりません。ネイティブでも時間が足りなくなるひともいます。

2)ニューヨーク州に特化した選択問題、1時間。これもかなり細かいところを突いてくるし、上述のように学校では学んだことのないような細かなところまで聞かれます

3)ニューヨーク州に特化した小論文5題、各45分。出題内容は基本7科目に加え、信託、遺産相続、家族法、担保取引、代理人、複数州にまたがる事件の場合の準拠法、会社法、無過失保険法、州民事訴訟手続法、パートナーシップ、などなど…。

4)架空の法律や判例をその場で与えられ、限られた時間内にリーガルメモや最終弁論などを書き上げる問題解決能力を見る試験。これはMPT(Multiple Performance Test)と呼ばれ、90分。  



きちんと作ったアウトラインに愛着と誇りを感じたりして...。


ニューヨーク州の場合は州に特化した選択問題と小論文、MPTを初日に受けて、二日目に四択問題200問を受けます。
 

自分は普段はプレッシャーに強いのですが、はじめての経験(特に試験関係にちょっと弱い)にはあがってしまうことがあり、今回はそれに加えていままで経験したことのない頭痛と吐き気に悩まされてしまいました。でも、緊張していたのは自分だけではないかも。会場内で会った同じ大学院出身のベン君は「もう27時間寝てないんだ」と呆然としていたし、やはり同じ大学院出身のジ・ユンちゃんは「わたし、昨日2時間おきに目が覚めてた」と言っていたし。
 

会場内にはプロクターと呼ばれる試験官が何人もいて、受験者から出席証明の署名を集めたり問題集を配ったり、不審な行動をする者がいないか目を光らせています。試験問題は開始時間まで絶対に開封してはいけない。でもやはり緊張していたのでしょう、試験前に開封してしまったひとがいて、そのひとはラップトップコンピューターを取り上げられ、手書き回答を義務付けられていました。
 

ちなみにラップトップコンピューターはあらかじめ専用のソフトウェアを入れておきます。会場に入ったらノート類は一切開いてはいけない。すぐに専用ソフトウェアを立ち上げて、試験が終わるまでコンピューターを机から動かしてもいけない。


すべての試験が終わって、嬉しいかなって思ったら、嬉しくはなかった。ただ、真っ白でした。

 

さて、今回はそんなわけで自分の結果は芳しくないんじゃないかな…と予測しているのですが、実は、あまり悲壮な心持ちではないのです。そりゃ一回で受かりたいけど、全力出せなかったのだから仕方がないもの。また受けるしかない。




 
これは、旅の途中だから。旅に「結果」はない。「経過」があるのみ。
でもさ、結果を出すことより、どうしたらいいか考えて、そのためにがんばる、そのことの経過のほうが、ほんとうは楽しいし、好きだな。


自分にとって、弁護士
に「なる」というのは目的ではないのです。それは手段にすぎないし、「夢」ではない。自分の見たい未来はもっとずっと先にあって、それはいま地上に与えられた人生のなかでは、たぶん叶えることはできないけど、もし思いが波及するなら。もし自分にできることをできるだけする、そんな「布石」を打つことができるなら。


試験2日目に見た夜明け。


これまで生きてきたなかでも、いろんな旅をしてきました。生まれ育った国と街を離れて、両親と離れて、ニューヨークという土地に自分の生きる場所を見つけたこと。演劇も、ものを書くということも、法廷やさまざまな司法の場で翻訳をしたり通訳をしたり、司法案件のチームをまとめるプロジェクトマネージャーをしたことも。外側から見たらいろんな違う仕事をしてきたように見えるかもしれないけれど、実は繋がっていて、同じ夢を追うためのその時々に「するべきこと」をしてきたにすぎないのです。


見たい未来は、もっとひとびとがお互いにわかりあえる世界。ヒト科以外の、しっぽや翼や鱗のあるヒトビトも安心して生きていけるような世界。出し抜きあったり誰かを利用することより、みんなが、みんなと、わかちあったりわかりあったりするために、自分にできることをしたい。何をしたら貢献できるだろう? 


法律には実は全然興味がなかったのだけれど、米国の司法制度を知って、それで興味を持ちました。英米の法体系と日本や欧州の法体系との大きな違いは、英米法の柔軟さです。それは、制定法だけでなく判例が法的拘束力を持ち得るからなのだけれど、それだけ書いてもわかりづらいかもしれませんね。説明しようとするとあまりにも長大な文章になってしまうから割愛するけれど、少なくとも自分の目に映った米国の法体系は、「石に穿った大昔の法典みたい」と思っていた日本の法律よりもずっとダイナミックで、人間的で、面白いものだったのです。混沌を極める世界にあって、法というのは、ひとびとがなんらかの秩序や公平さをもたらそうとする絶え間ない努力なのだ。そう思ったら、もっときちんと勉強してみたくなったのです。


自分がいま法律の専門家になったとて、それで地球が救えるなんて錯覚はもちろんないけれど、でもたとえば誰か困っているひとを助けるには法律のことを知っていて、実際に助言ができるほうがいい。愛する「ヒト科以外のヒトビト」のために、たとえば仕事の傍ら何か無料で法律関係のボランティアができるかもしれないし、自分自身がきちんと生活できる基盤を築けば、環境のために募金したいと考えたときもきちんと貢献することができる。
 

うまく伝わるかなあ。もっと美しい文章を書きたいのだけれど、今回は話の内容も堅いので少しぎこちないですね。ごめん。


 
そんなこんなで、いまは少し宙ぶらりん。三ヶ月、毎日、週末も返上、好きなお酒も一切断って勉強してきたから、今月はそんな日常から離れる旅の月です。まずは家族のもとへ帰って、少し「ひとりでがんばる葉之輔君」にお休みをあげよう。


日本は生まれ育った国だけれど、人生の半分くらいは別の土地で生きているから、自分にとってはどんどん異国のようになりつつあります。それと、馴染みのない東京の風景を見ながら、「目に見える」風景の向こう側に、いつか見た時間の向こうの風景を見ている自分がいる。東京を歩くと、身体は「いま」の東京を歩いているのだけれど、心は「いつか」に旅している。
 
なかなか厳しかった冬を越えて、次の旅に出るまでのポケットのような日本の旅。桜にも会えるかな? いつかみた笑顔や、まだ見ぬ笑顔にも会えるかな?

 
author : watanabe-yo
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オクスマンさんの家 第三話

【2014.12.31 Wednesday 00:42

<本編は、オクスマンさん連話の第三話です。これまでのおはなしについては、第一話第二話をご覧ください。>


トロル男のベンは、ぶきっちょだった。全体的に「もさ〜っとでかい」雰囲気が漂っているのだけれど、なかでも人づきあいに、ぶきっちょだった。

わたしはあるとき仕事で数日のあいだ街を離れなくてはならず、愛猫ひめひめの世話のため、友人に来てもらうことになった。見知らぬひとの出入りを不審に思われると困るので念のためトロル男にそのことを伝えると、ぼさぼさ眉毛の下の眼をギロリとさせて、こう云った。

「で、そのねえちゃん、いいおんなかい?」

わたしは一瞬、どう対応したものか途方に暮れ、動きを停止してしまったけれど、次の瞬間に「はあ」と息を吐いて答えた。

「そういうこと、きみは気にしなくていいの」

ベンはまばたきをして、「おや、そうか」と云った。

正直云うとこちらも一人暮らしの女性だし、相手は我々全員の部屋の鍵を持っている管理人なのだ。云うこと間違えているじゃないか。

以前にも困った発言があった。ケーブル設置で業者に来てもらったときにトロル男も「監督」するためわたしの部屋に来たのだけれど、どうやらしばらく(?)お風呂に入っていないらしく、部屋には「もわ〜」と鼻が曲がりそうなニオイが漂った。それに、出て行くときにこちらを見てにやりと笑い、「今日のランチはなにかい?」なんて云うのだ。知ったことか! 招待なんかしてないぞ。

困ったトロル男発言に思わず「オクスマンさんに告げるべきか」と思ったけれど、武士の情けでやめておいた。まったくトロル男ときたら、どう贔屓目にみても清潔じゃないし、地下のランドリーにもなんだかいろんなガラクタを積んだままだし、そのくせひとに何か云うときはやたら偉そうだったりしてヤレヤレなんだけれども、実のところわたしや友人にちょっかいを出そうなんて思っているわけではなく、フレンドリーな冗談を云っているつもりなのだ。ぶきっちょだなあ。。

そんなトロル男が、夕暮れ時や夜がとっぷり暮れた時分にアパート前の消火栓にひとり腰かけて摩天楼のあいだに浮かぶ空を見つめる姿を、時々見かけた。下手に捕まって長話になると厭なので「ハロー」と云ってそそくさと中に入るのがわたしの常だったけれど



 

そもそもトロル男はどこからきたのだろう? ホビット族のオクスマンさんと巨人トロル男。どこで知り合ったのだろう? 以前は疑い深かったというオクスマンさんが、いったいどういう経緯でトロル男を信用するようになったんだろう? 

身体の大きさはオクスマンさんの四倍くらいあったけれど、わたしにはいつも、トロル男のベンは、オクスマンさんが何かの拍子に拾ってしまい「困り者だが面倒を見る事に決めたこども」のような存在なのでは、と思えて仕方がなかった。

その年のクリスマス直前に、愛猫ひめひめが天に還った。ひめひめのいちばん可愛い写真を印刷してカードを作り、オクスマンさん夫妻に宛てて送った。オクスマンさんは猫好きで、ひめひめを病院に連れていくときにばったり出逢ったりすると目を細めて「このこはいい猫だ」と可愛がってくれたのだ。オクスマンさんに送ったカードには、ひめひめが逝去したことは書かなかった。ただ、「いつも可愛がってくださりありがとうございます。どうか暖かく安らかな年末年始をお過ごしください」と書いた。前の年にカードを送ったときにはオクスマン夫人の手書きのカードをお返しにいただいたけれど、この年には返信はなかった。冬のあいだじゅう、オクスマンさんの姿を見ることはなかった。




 

復活祭が近づくころ、珈琲豆を買いに外に出たら、痩せ細ったオクスマンさんにばったり出くわした。こけた頬に闘病生活の辛さがにじんでいた。長いこと入院していたのだ、と教えてくれた。それでも逢えたのが嬉しくて、「心配していたんですよ。早くよくなってくださいね」と云うと、オクスマンさんは少し顔をくしゃ、とさせるように笑って、「そうなるようがんばっておるのじゃ」と答えた。

その後でオクスマンさんから電話があった。大家さんから電話なんてなかなか無いから何事かと思ったら、

「保険会社のひとにアパートの部屋を見せたいんだが、きみのところに送っていいかね」と云う。オクスマンさんの頼みなら、とふたつ返事で承諾した。

数日後にスーツを着た数人の男たちが来たとき、「あ、違う」と思った。うまく云えないけど、勘で判った。わたしの直感を裏付けするように、同じようなスーツ姿の男たちがその二、三日後にもやって来た。二度目のときは予告なしで。一回だけだと思ったのに。わたしの不在中にも入ってきて部屋を見ようとしているのだろうか? 不穏な心地がして、オクスマンさんに電話をかけた。

「どうしたのじゃ」

「あの、わたしの部屋を見せるのは一回だけかと思ったのに、あのひとたちまた来たんです。予告もなしで。知らないひとたちが何度も来るのは厭です

オクスマンさんは申し訳ながって、すぐに手配する、きみはもう心配しなくていい、と云ってくれた。それでもちょっぴり不安だったので、紙に大きな字で、

『住人の許可無しにこの部屋に入ろうとするのは違法行為です』と書いてドアに貼った。(知らない人もいるかもしれないけど、米法ではたとえ大家でも管理人でも住人の許可なしに勝手に貸しアパートに入るのは違法なのだ。)

でも、本当の不安は別にあった。

(オクスマンさんはこの建物を手放そうとしている)

あれは保険会社のひとじゃない。どこかのブローカーだ。物件としてこの建物を売ろうとしているんだ。誰かに聞いたわけでも物的証拠があるわけでもなかったけれど、あれだけ身体の具合が悪いのだもの。オクスマンさん...。



 

六月、日射しがすっかり夏になるころ、アパートのおんぼろエレベーターの前に一枚の紙が貼ってあった。

「住民諸氏へ

 オクスマン氏が逝去しました。葬式は西五十八丁目のナントカ教会

汗ばむほどの陽気の中、その教会に行ってみた。米国でお葬式に出るのははじめてだ。ユダヤ式のお葬式というのはどういうものなんだろう。映画で見たユダヤ系のひとのお葬式はみんな黒を着ていたから、黒いワンピースで大丈夫だろうか。

少し遅れてしまったので、着いたころにはもうサービスがはじまっていた。小さな教会の奥に、見知らぬ若い男性の大きな写真が立てかけてある。あれが若いころのオクスマンさん? 太いセル縁の眼鏡をかけて、あれは40年代か50年代ごろの服装だろうか。参列者は知らないひとばかり、たぶん家族や身内、友人たちかな。東洋人はわたしだけだ。後ろの方の席に座った。気配を感じて振り返ると、最後列にトロル男と、わたしにオクスマンさんのアパートを紹介してくれた不動産屋のラルフが並んで座っていた。

「アパートの住人で、来たのはきみだけか」 トロル男が云った。

「みんな忙しいんだよ、きっと…」小声で返事しかけたけど、うまく言葉が出なかった。

教会といってもユダヤ教の教会ではなくて、なにかいろんな幅の広い宗教の集まりに使うような、多目的ホールみたいな感じの会場だった。司祭というよりは司会といった風情の男性が文字通り司会をしており、オクスマンさんの経歴を紹介していた。聞きながら、わたしは少しびっくりしていた。わたしにとってはただ「ホビットのような大家さん」だったけれど、こんなひとだったのか…。
 

若きオクスマン青年は音楽が大好きで、第二次世界大戦に従軍したときは楽団部隊に属し、欧州中で演奏して回ったこと。うんと昔はチューバを吹き、それからドラムに転向したこと。戦争が終わりニューヨークに戻って来たオクスマン青年はアパートを借りようとしたけれど、彼が太鼓叩きだと知った大家さんに追い出されたこと。「あんたたち音楽家はいつも練習、練習だ。うるさくてしかたない」と。

オクスマン青年は、(それなら自分で建物の持ち主になってやる。そうすれば心置きなく練習できる)と考え、懸命に働いたという。何をしたのかは説明が無かったけれど、どうやらビジネスの才覚があったらしく、やがて上西町にいくつかの建物を所有するようになった。八十二丁目のわれらがアパート以外にも、八十六丁目に建物を持っていたらしい。そこであるとき、オクスマン青年はとんでもない訴訟に巻き込まれた。

「オクスマンさんの入院中に聞いた話でね」と、お葬式の司会者が云っていた。彼はどうやらやはり司祭ではなく、本業は弁護士らしい。オクスマンさんが、自分が世を去っても妻がきちんと生きていけるようにと雇ったらしかった。彼の話してくれた"オクスマンさんの司法事件"は、入院中にオクスマンさんの枕元に通うなかで聞いたらしい。

「助手を法廷に送って、資料を探させたんですよ。オクスマン対シルバーマンの法廷劇

オクスマンさんの八十六丁目の建物は、ファサードに藤の蔓が絡まり、緑の葉に包まれていた。オクスマンさんは猫だけじゃなくて、植物や、いろんな生きとし生けるものを愛していたのだ。だからその藤も、自分で植えたものだった。

ファサードを覆うようにして茂る藤蔓がいつからか、ホシムクドリたちのすみかになった。ホシムクドリは雀と鳩の中間くらいの大きさで、黒褐色のからだはびっしり、星を思わせるキラキラの斑点に覆われている。群れるから嫌うひともいるけれど、ちょっと九官鳥を思わせるきろきろの目でたべものをさがしながらヒョコヒョコ歩くその剽軽な姿、わたしは好きだ。

けれども、オクスマンさんの建物の向かいに住むシルバーマン氏は、鳥たちの声が許せないらしかった。オクスマンさんの藤蔓のせいで鳥たちの騒音がうるさい、迷惑行為だ、弁償しろ、さもなくば藤を根元から切り倒せと、ニューヨーク州上位裁判所でオクスマンさんを訴えたのだ。

「本件は、被告オクスマン氏の建物に茂る藤蔓を突如ホシムクドリ一族が住居と認定したため、鳥の騒音被害を嘆いた原告が提訴したものである。鳥たちのもたらす被害は、当法廷も熟知するところである。なぜなら、当法廷もあるとき突如鳥たちに人気を博してしまい、入り口の階段が鳥糞に覆われることとなった

怪しい雲行きの判決、と思いきや、

「ところが、これによって明らかなのは、鳥たちが被告オクスマン氏の建物を住居と定めたのは藤蔓のせいではない、ということである。なぜならば、当法廷にはそのような見事な藤蔓はなく、むきだしの石づくり。よって、ホシムクドリたちが被告オクスマン氏の建物を偏愛している理由は被告オクスマン氏の植えた藤蔓とは無関係であるばかりか、その原因は鳥族に聞いてみなければ判らないのである」

なんて粋な裁判官! シルバーマンさんの訴えは却下、オクスマンさんは「司法上の大勝利」を収めたのだという。

その話のあと、生前のオクスマンさんが可愛がっていたという、親戚なのだろうか、大学生の青年がふたり出てきて、オーボエでショスタコーヴィッチとショパンを一曲ずつ合奏した。オクスマン夫妻にはこどもがいなかったらしい。けれどもふたりの青年とオクスマンさんはよく音楽の話をしていたのだという。

最後に別の紳士が前に出て、こう云った。

「レオン(オクスマンさんの名前)は、いまここにはいない。けれど…悲しむのはやめましょう。蝶を思い浮かべてください。われわれはこの地上を這い回り、空を見上げる。レオンは蝶になったのです。この世界から向こうの世界へ、羽ばたいていったのです。けれどふたつの世界のあいだにあるのは、ふたつの世界を分かつ壁ではない。ただ、この世界からあちらの世界へ、羽ばたくときがやってくる、誰にも...。逢えたことを感謝し、慈しみ...蝶になったレオンを憶いましょう」


昔読んだ、エリザベス・クブラー・ロスの本を思い出していた。死を目前にしたユダヤ人のこどもたちが、ナチスの収容所の壁に刻んだという蝶の絵。そういえば古代アッシリアの遺跡には、羽根を生やしたひとの絵がたくさん刻まれている。ひとはあちらの世界に逝くとき、翼をもらうのだろうか? 





 

蝶の羽根をもらって天に昇ったオクスマンさんは、ひとあし先に逝っていたひめひめに会えただろうか?

涙もろいわたしは泣いてしまったけれど、悲しいからじゃなかった。ただ、愛しさがこみあげて涙になるのだ。オクスマンさんに会えたことも、まったく知らなかったオクスマンさんのことをこうして知ることができたのも。





 

夏が熟すころ、オクスマン夫人の名前で、アパートが売れたことを知らせる通知が来た。新しい大家さんはアパート管理会社のようで、オクスマンさんのように個人の大家さんと世間話をする、なんて一幕はもう無いらしかった。賃貸契約はまだ有効だし、そのまま更新もできる。けれど、

「ベンが解雇されたのよ」

そう教えてくれたのはツルマキさんだった。アパートの廊下でばったり逢ったときのことだ。ツルマキさんはこのアパートの中でも最も古い住人のひとりだ。オクスマンさんやベンの文句を云うこともあったけれど、居なくなる、となると話は別だ。

正直なところ、ベンは行くあてがあるんだろうか、と思った。だって、ぶきっちょだけど悪い奴じゃない、とは云っても、世間的に見たら…どんな再就職の口があるだろう? 家族はいるんだろうか?(わたしの中ではどうしてもトロル男なので、どこかの岩場からひょっこり出てきたんじゃないか、と想像してしまっていたけれど)

「もう一年の四分の三は過ぎたでしょう。これからクリスマス。だから、以前からいた住人だけでも、毎年クリスマスに渡す御礼をカンパしたらどうかって思うの」

ニューヨークのアパートでは毎年冬に、一年間の御礼として、数十ドルから百ドル相当の現金かプリペイドのクレジットカードをアパートの管理人さんに渡す。ツルマキさんはそのことを云っているのだった。それから二、三日のあいだにツルマキさんは古い住人みんなと話をして、二十人分くらいからカンパを集めた。わたしも参加して、カードもつけた。ツルマキさんがみんなの分を集めて、ベンにプレゼントしてくれた。

ベンの後には、アルバニア人のジョンさんという管理人が入った。ジョンさんはベンと違って(失礼)こざっぱりしており、こまめによく働くので地下のランドリー室もゴミ捨て場もたちまち見違えるほど綺麗になった。ベンはその後も時々なにか用事を済ませに来ていたけれど、暫くして姿を見なくなった。

 

それでも八十二丁目を歩いてアパートに帰るとき、ベンがいつも座っていた消火栓を見ると思う。トロル男はここで空を見上げて、何を考えていたんだろう?

そしていまでも、ランドリー室に行くときには、あの小柄なオクスマンさんの姿が浮かぶ。赤と白のボーダーTシャツなんか着て、ちょっとはすに葉巻をくわえたお洒落なおじいちゃま。ランドリー室の奥にある作業室で古いラジオが昔のジャズなんか流しているときは、背中の羽根をたたんだオクスマンさんがそっと耳を澄ましているんじゃないかな、なんて想像する。

 

 

高度一万メートル、太平洋を越える飛行機の機内で本稿を書いている。夏からずっと書きたかったけれど、大学院の勉強に追われてなかなか書けなかった。楢葉さんと年が越せるかな、と思ったけれど、あのこは天に還ってしまったから、急いで航空券を買ってお正月の数日間、帰郷することにした。

ニューヨークから成田に向かう午後便、カナダの上空にさしかかる頃、右手の窓からオーロラが見えた。空にたなびく天子の羽衣のような光の帯。碧を帯びた白い帯が、刻一刻と姿を変えていく。窓に顔を近づけてそれを眺めながら、地上も、天でも、すべては変わりゆくのだと思った。日々の暮らしも、愛するものたちも、自分自身も、時を重ね変わっていく。地上を去るもの、地上で別れるひと、いつもそこにあるように見える山も、海岸線も、変わっていく。

「変わる」ことは悲しいことなのだろうか?

時と運命の流れのなかで、出会ったひとたち。小さい命を燃やして逝った楢葉さんや、ひめひめ。自分が高校生のとき天に還った祖母のこと。祖母は戦争で夫を亡くした。まだ若き彼女が、それから数十年の人生を生きながら、どんな思いを胸に抱いていたのか、大人になってみて改めて思いを馳せる。

流転するからこそ宇宙は生きており、死するからこそ生まれるものがある。

「変わる」ことを悲しむよりも、「変わる」ことも含めて愛せればいい。「変わる」ことのなかに、「変わらぬ」ものもあると、我々はみな、体験を通して、知っているのだから。一滴一滴の雫の連なりが河となり海となり雨となり氷河となるように、地表だけじゃない、外の天体にも「水」があって、だから宇宙のなかの水は限られた質量のようで、でもどこからどこまで限られているのか誰にも判らないように、そんなふうに、一瞬一瞬の連なりのなかにも永劫を感じられたらいい。

キャンディみたいに並んだ白とピンクと青の小さな光の粒めざして、飛行機は舞い降りる。

長いオクスマンさんのお話を読んでくださってありがとうございました。あなたがどこにいても、去りゆく年に柔らかな面持ちで「ありがと」て云えるような、そんな年越しになりますように。新しい年が、いろんなヒトやモノゴトとの出会いや冒険、愛しいものたちとの時間に、満ちていますように。

 

author : watanabe-yo
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楢葉さんが旅立ちました。

【2014.12.07 Sunday 04:40



 
猫の楢葉さんが、空へと還っていきました。今年の六月にシェルターから迎え入れ、半年に満たない時間だったけれど、彼女のいる暮らしは毎日、毎秒が倖せでした。

去年の十二月に先猫のひめひめが旅立ち、数ヶ月のあいだひめひめを失った悲しみにくれていたのですが、春頃から、また、「しっぽのあるヒト」と暮らしたいと思っていました。シェルターのホームページには年齢によって収容されている猫のリストがあって、迷う事なく「大人・シニア」の猫をみていました。自分のいまの生活では子猫の世話はできないし、できれば引き取り手の見つかりにくい、高年齢の猫を迎え入れようと決めていたのです。

三十匹ほど顔写真の並ぶページをひとめ見て「あ、この子」と思ったのが楢葉さんでした。シェルターでは、Nala(ナーラ)という名前が付けられていました。少しだけ目尻の上がった大きな目と、なにか「凛」とした気配が気になったのです。でも直接会ってみないと判らないから


夏のはじめのある夕べ、楢葉さんを迎えにいきました。

六月中旬、大事な仕事の海外出張が終わって紐育に戻るとすぐに、シェルターに行ってみました。所謂「No Kill」、つまりどんな子も殺さないのがポリシーのシェルターです。郊外のロングアイランドにあるので、普段は乗らない電車に揺られて一時間の小旅行でした。

そこで出逢った楢葉さんは、写真の美しい猫とはずいぶん様子が違っていました。ゲッソリと痩せて毛並みもぼさぼさ、みんなから背を向けてくるりと背を丸めているばかり。正直「大丈夫かな」と思ったのだけれど

「いまここにいる猫たちのなかで、いちばん家庭を見つけるのに苦労しているのはどの子ですか」

と尋ねると、それは楢葉さんだと云われました。
逢う前から「この子」と思っていたし、縁があるのかな...

なんでも、もともとはどこかの家に八年間ほど飼われていたのだけれど何らかの事情でシェルターに連れてこられて一、二年を過ごし、そのあと一度は別の、こどものいる家庭に引き取られたもののわずか二ヶ月ほどで「返された」とのこと。そして二度目にシェルターに来た頃から病気になり、ゲッソリと痩せてしまったのだとか。


「ナーラちゃん、うちに来る?」
そう話しかけてもそっぽを向くばかり。ふと見た目には暗い蔭りが宿っていました。

連れて帰らないわけにはいかない。

病気持ちというのはその時点で判っていたけれど、その後発覚した程の酷い傷を口腔内に負っていたことは、知りませんでした。(シェルターのひとが知っていたのかどうか…もし知っていたとすれば彼らはそれを伝えるべきだけれど、真相は判りません。でも結果的には楢葉さんを迎え「ない」という選択は自分にとって既にそのとき、なかったと思う。)

郊外なので誰もが車で行き来するなか、楢葉さんの入ったケージを抱えて夕闇のなか歩いて駅まで戻り、半時間ほど電車を待って、ガタゴト揺られて帰りました。楢葉さんにしてみればいったいどこへ連れて行かれるのか不安だったに違いないけど


(シェルターからうちにやってきた翌朝の楢葉さん。まだ警戒気味です。

家についたらまず彼女をバスルームに閉じ込めて。小さい空間で慣れさせるんです。怯えてあなたに噛みつくかもしれない。

シェルターの係のひとにそう云われていたし、最初に小さい空間に入れて安心させるというのは犬猫とつき合う上ではよく云われることなので、アパートのバスルームにまず入れて、でもドアをぴっちり閉めるのは何か憚られ(だって、小さいケージに閉じ込められる毎日を過ごしてきたのだから…)、一センチくらい隙間をあけてドアを閉めると。

数分もしないうちに、彼女はいとも容易にドアを開け、するりと出てくると、トコトコトコと歩きまわって、ベッドの向こう側やソファの後ろを覗いて確かめていました。怯えているというよりも、

「ここ、おうちですか? ほんとですか? ほんとですか?」

と、安心感と嬉しさを抑えきれない様子で。小さなアパートなので、探険にもそう時間はかかりません。他にはだれもいない、楢葉さんとわたしだけの「おうち」なのだと確認すると、彼女のために置いたボウルの水を時間をかけてゴクゴクと飲み、わたしの足下にきてちょこんと前足を揃え、

「ねいさん、ありがとございます」

と目で伝えてきました。


楢葉でございます。ねいさん、仁義です。

複数の家庭を転々とし(というか、転々とすることを強いられ)、シェルターにも何度も出入りしてきたせいか、最初のうちはやはり警戒心を抱いている様子でした。下手に手を出すと噛みつくことも。(もしかしたらこどものいる家庭に一時引き取られたとき、こどもが遊ぼうと思って手をだしてくるのが怖かったんじゃないかな…。そして、そこで噛みついて、怒られたりして、それがショックで二度目にシェルターに戻されたときに病気になってしまったのかな?)



だんだん慣れてきましたよ。キャハハハ!
(大笑いしてるように見えるけど、実は大あくびしているところ)



うちに来て一週間ほどしたある朝、楢葉さんのまぶたが大きく腫れていました。驚いて病院に連れていくと、どうやら前日に食べたごはんに魚が入っていたのが原因のようでした。ごく稀に、魚にアレルギー反応を示す猫がいるのだそうです。
まぶたの腫れはアレルギー反応なので「魚を食べないこと」ですぐに治るでしょう、と云われました。

問題は...
獣医のシェヘリ先生が彼女の舌を見たとき、


「これは、いったい何!?」

驚いて覗くと、楢葉さんの舌の真ん中には黒々とした、そこだけエイリアンの皮膚を思わせるような異質な、大きな孔が空いていました。

ごはんを食べるときに周囲に散らかしてしまうのが少し気になっていたのだけれど、そのわけが判りました。こんな傷を負っていたら、フレーク状のごはんがひっかかって、痛いに決まっています…。


ごはん、たべられるかな...痛くなるかな...どうでしょうか...

その時から、楢葉さんの病院通いがはじまりました。舌の病状は「好酸球性肉芽腫」かもしれないということで、毎日ステロイド剤を飲ませていました。(まぶたの腫れは、ごはんから魚を排除することでやがて治まりました。)


くまたんともすっかりなかよしですよ

でも、彼女だけの「おうち」の暮らしはほんとうに嬉しかったようで、彼女の好きな鶏とパンプキンのごはんをあげると、

「これ、おいしですね? おいしですね?」

と云いながら(ニンゲンの言葉じゃないけど、猫語でそう云ってた)、こちらが驚く程の量をぺろりと平らげてしまったことも。シェルターから迎え入れたときは骨と皮ばかりでげっそりしていた身体も猫らしい曲線を描くようになり、最初は厭がっていたお風呂にも入れさせてくれるようになりました。(シェルターから来て最初にお風呂に入れたときは、ぬるま湯が真っ黒になって驚いた)


(こわくなっちゃったとき避難するための、楢葉さんの"猫壷"。紅いお花がお洒落ですよ)

うっかりブラッシング中に後ろ足を触るとガブッと噛まれることもあったけど(たぶん反射的に反応してしまうのだと思う)、急な反応をせず静かに「それ、痛いよ」と告げてしばらく構わずにおくと、安心もし、微妙に反省もしているような顔つきをするのでした。

もともとはひとなつこくて愛嬌のある子なのでしょう、わたしが勉強しているとそっと横に来て見上げることもしばしば。脇の椅子に置いたクッションをぽんぽん、と叩くと、それが「こっちにおいで」という言葉であることをすぐに理解してぴょんと飛び乗り、満足げにしっぽの先を揺らしながらいつまでも横に座っていてくれるのでした。



(勉強の手伝いに目覚めたころ。) 
ねいさん、どんどんやりますよ!!


論文提出前に勉強していると、

「おてつだいしますですよ!!」

とテーブルにのってきて、ものすごいやる気を見せながら資料の山の上に座ってくれたこともしばしば。
(猫と暮らすひとには経験あると思います。新聞とか読んでると必ずのっかって「手伝って」くれますね)


「なーたん、ありがとう。いいこだね」
(楢葉さん、がなっぱさん、になり、なっぱたん、になり、次第になーたんになった)


と声をかけると、大きな目を細めて嬉しそうにしていました。


(勉強の手伝いにハリキリすぎた一例。

お風呂に入れて以来、バスタブと「水」の概念が直結したらしく、

「お水は、おふろでのみます」

と云いはじめたのもその頃です。


お水はおふろですよ。。

バスルームに行って何か云いたそうにしていたとき、最初は何なのか見当がつかなかったけれど、「どうしたの?」と彼女の目を覗き込んでみたら、彼女がそう思っているのが判ったのです。新鮮な水を入れた鉢を彼女の前に置くと、

「よかった! これでお水がのめます」
といったふうに明らかに安心してゴクゴク飲むのでした。


お水のたかさがだいじです。。

舌を貫通するほどの孔が空いているせいか、楢葉さんにとっては水の「高さ」もポイントでした。以前ひめひめが使っていた「ごはんテーブル」に置いた鉢がちょうどよいこともあれば、なぜかそれだとだめで、縁ぎりぎりまで水をいれたコップをすぐ目の前に差し出してあげるとやっと安心して飲むこともありました。


(脇腹の毛を歯でむしってしまうので、Tシャツを着せられてしまった楢葉さん。)

ニンゲンと猫は言語が違うから話し合えない、と思っているのは心の目にサングラスをかけてしまっているひとじゃないかな。心の耳を傾けてみると彼らの言葉は聞こえてくるものですよね…。そのときどきの事情は判らなくても、動物たちは特定の具体的な条件にこだわるヒトたちということを読んで以来、随分彼らの言葉が判るようになった気がします。(テンプル・グランディン著の『動物感覚』、原題 “Animal in Translation”がとても参考になりました)

最初のうちはソファで寝ていたのに、わたしが床に就くときにはぴょんとベッドに飛び移ってきて横に寝そべり、喉を鳴らしながら眠りにつくようにもなりました。(朝になるとソファに戻っている。こちらの寝相が悪かったかな?)


ソファでおひるね。やわらかい時間が流れていきます。。

ステロイド剤はなかなか効かなくて、舌の孔は広がるばかり。好酸球性肉芽腫ではないのかもしれない、と疑いはじめたシェヘリ先生のアドバイスで、口腔専門医の検診を受けました。生体組織検査の結果は「原因不明」。二人の専門家が分析してくれたのですが、腫瘍があるかないかで意見が二分したのです。生体組織検査の結果を携え、楢葉さんを連れて腫瘍専門の獣医さんに見てもらって、漸く出たそれらしい結論は、「はっきりとは判らない、複雑で前例の見られない症例だけれども、おそらく悪性の肉腫(sarcoma)と、なんらかの感染症が組み合わさったものだろう、ということでした。放射線治療や切除手術も考えたけれど、どうやら腫瘍の「本体」は舌の根の部分に蛸の頭のように居座っていて、舌の表面の孔は末端部に顕われたものらしい、とのこと。つまり切除や放射線はかなり広範囲で、食べるための身体の機能のいちばん大事な部分を取り去るという、大掛かりなものになる。楢葉さんの医療記録は膨大で複雑なのですが、他にも症状があるのです。シェヘリ先生と長いこと話し合い、放射線や手術は身体に負担が大きすぎる、との結論で一致しました。

秋に入るころにはだんだんごはんが食べられなくなってきました。なんとか彼女の食べられるものを、といろいろフードを変えてみたり、鶏ささみを柔らかく茹でてみたり、うんと薄く切ったしゃぶしゃぶ用の肉を霜降りにして与えてみたり。でも暦が十一月に入る頃には、ぐっと食が細くなり、最初のころにやっと曲線をおびてきた身体は日に日に痩せていきました。
一週間おきにシェヘリ先生のもとに通って抗生物質の注射を受け、家ではステロイド剤を飲み、痛み止めの注射を打ち、食べられないときには皮下点滴をし。病気の猫の世話をするのは慣れているから、わたしのところに楢葉さんが来てくれたのは巡り合わせだったな、と思います。


おくすりは、やですー

皮下点滴は最初のうち、

「こわいですー」
と逃げようとしたけれど、針を入れる前に痛み止めを打ち、ブラッシングをして話しかけながら点滴するうちに、彼女のなかで(これは気持ちよくなるものだ)という理解が芽生えたらしく、のどをごろごろ鳴らしながら点滴させてくれるようになりました。


ねこさんもたいへんです。。。すうすう。。。。

十一月の終わり、感謝祭の祝日前にはいよいよ何も食べられなくなって、その頃から安楽死の手配を考えていました。病院というのは、動物にとって「こわいところ」。だから、その時が来たら訪問対応可能な先生に自宅に来ていただこう、と。
苦しくなる前に早めに、と安楽死の手配をしたこともあったのですが、(まだ、じゃないかな)と心がざわざわして、一度目の予約はキャンセルしてしまいました。その時は夜になってから少し食欲が出て、バターをつけたパンと鶏のつぶしたのを食べてくれたから、やはりあのときはまだ「その時」ではなかったのだと思います。



(最後の数日は、ベッドスタンドと窓際ですごしました。)



けれどその僅か二日後。あまり具体的に書くとビックリしてしまう方も多いと思うけど、とうとう舌が裂けて…信じられないほどの凄絶な状態だったのです。驚いてシェヘリ先生のところへ連れていって、あれこれ話しました。手術で一部を切除してチューブ給餌、という選択も話したけれど、楢葉さんの身体はとてもデリケートだからそれに堪えられるかどうか。
ごはんが食べられない状態ならば、もう逝かせてあげたほうがいいのかもしれない。

それでも家に戻って、楢葉さんを撫でていたら、「ミュー」と云うのです。

あれ、お腹すいた、って云った?

(な、なにか楢葉さんの食べられそうなものをあげてみよう)と思って頭をめぐらせるうちふと思いつき、冷凍庫にあったアイスクリームをあげてみたら…なんと大当たり。いままで食べていた鶏のフードやパテにはもう見向きもしなくなっていたのに、

「これおいしですね? おいしですね?」

と、舌は使えないのに前歯でアイスクリームをかじって、口をはふはふしながらおかわりもしてくれました。
けれど、スプーンに一、二杯のアイスクリームでは身体を持続させることはできない。


(窓際から床に落ちてしまったことがあったので...箱と毛布を敷いて、「楢葉さんの小部屋」をつくりました。)

足腰が立たなくなってしまったのは、一昨日の夜のことです。トイレに連れて行って身体を支えてあげると、用を足すことはできる(首の動きや目の動きで、トイレにいきたくなったときを教えてくれました)。でも、もう自分の力で身体を支えることもできなかった。朝を待ってすぐに獣医さんに連絡をしました。シェヘリ先生は都合で来られなかったけれど、口腔専門のマリー先生が昼過ぎに来てくれることになりました。

獣医さんの到着を待つまでの最後の数時間、楢葉さんの横に座って見守っていました。



ダイジョブだよ。もうすぐ楽になれるから。怖くないよ。

よくがんばったね。精一杯生きたね。

もっと一緒にいたかったね。

お空に還って、少し休んで、また生まれ変われたら、こんどは他のおうちに寄り道しないで、まっすぐ戻っておいで。待っているから。

いろいろ話しかけたけど、伝わったかな…。痛み止めも多めに打っていたけど、苦しそうだった。最後は貧血もひどく、いつもはピンクの肉球が真っ白になっていたのです。

獣医さんの強力な催眠薬で眠りに落ち、続けて打った薬で、辛そうだった身体は静かに呼吸をとめ、楢葉さんは空に旅立ちました。

でも、早めに安楽死を手配しなくてよかったと思う。あの時はまだ、楢葉さんは全身で生きようとしていたから。生きようという力が、意思が彼女のなかにある限り、精一杯生きてほしかったから。

小さな鼻に皺をよせて、「えいえいー」とアイスクリームをかじる顔が浮かんできます。彼女がいなくなって寂しいけど、逢えてよかった。天国で休んだら、また戻ってきてくれるかな? そしたら、彼女が大好きだったマスカルポーネのアイスクリームを、またいっぱい一緒に食べよう。


ならちゃん、ありがとう。
 
 
author : watanabe-yo
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オクスマンさんの家 第二話

【2014.08.06 Wednesday 14:21
熊のように大きくて、 眉毛と髭は茫々と伸び放題。眼光ギラリと油断なく光り、その存在感だけでひとはすくみ上がってしまう。

そんなひとを想像していた。十数年前からオクスマン氏を知るというブローカーのラルフが「ちょっと頑固者でね」というくらいだから、かなり難しいひとなのではないか。ラルフは柔らかく表現しているけど、実は相当偏屈な、おっかない人物なのではないか…。

オクスマンさんの部屋の前に立ち扉をノックすると、中でぱたぱたと乾いた足音がして扉が開いた。扉の向こうに立っていたのは、身長154センチのわたしよりももっと小さいのではないかと思われるほど小柄で、大きな瞳にいたずらっぽい光をたたえたおじいさんだった。

「ハロー」

「ハロー」

にこやかに握手。オクスマンさんの瞳の中の光を見て(ホビット族だ)と思った。
 
*註 「ホビット」族は英国の童話作家トールキンの大叙事詩『ホビットの冒険』や『指輪物語』に登場する種族。小柄で朗らか、食べること、飲むこと、おしゃべりすること、楽しむこと、そしてこまめに働くのも好きな、楽しい一族。
 
「きみが、今度入居するひとだね。逢えてよかった」 そう云ってオクスマンさんは手を伸ばし、嬉しそうに握手してくれた。
「引越しは無事に運びそうかね? なにかあったら云ってくれたまえ」
 
 
摩天楼の街でも、見上げた空の表情に、天と地が繋がっていることをふと思い出す。


入居する前にがらんどうの部屋に通って、床やキッチンを掃除したり(清潔にしてくれていたけれど、自分の手で「拭く」ことで、何か安心できるのだ。儀式のようなものかもしれない)、窓の幅を巻尺で測って、カーテンを吊るすための横木を買ったりして準備をした。

引越しは、それまで何度かお世話になっている「引っ越し太郎」さんに手伝ってもらった。日本男子がやっている引越業者で、なにしろ速い、確実、壊さない。エレベーターの無い、つるつるすべる大理石の階段で上がるしかない六階のアパートへも、汗まみれになりながら荷物を運んでくれた強者集団である。三年ほどのあいだにあっちこっち引っ越ししていたのですっかり「おなじみ」になってしまった。いつものように時間通りに現れた彼らは、「あれ葉さん、また引っ越しですか。引っ越し好きですねえ」と云いながら、このときもまたせっせと働いてくれた。

引っ越しに当たっては管理人の「ベン」に連絡を取るように云われていた。引っ越しは週末ではなく平日にするように、とも。小さなエレベーターひとつしかないので、他の住人に迷惑がかからないようにするためらしい。

荷物を搬入するとき、はじめて管理人のベンと逢った。小柄なオクスマンさんと対照的に、ベンは大柄で、全体に「樽」、それもドイツの田舎の納屋あたりに転がっていそうな大きくどっしりした樽を思わせる。ごま塩の髪はこういっちゃなんだがだらしない感じに伸びて、何日かシャワーを浴びていないような汗の混じった埃っぽい気配が漂っている。

(トロルだ)
と思った。

「このエレベーターは見ての通り小さいぞ。お前の家具、ちゃんと入るのか」
質問、というよりは、咆哮、に近い話し方で、ベンはそう確かめるのだった。

住みはじめてみると、その部屋はやはり光がよく入る部屋で、気持ちがよかった。地上十階に住んだのははじめてだけれど、空に近いのも悪くない。小さなダイニングテーブルを置いた横の窓からは、隣の、たぶん四階建てくらいの建物の、屋上庭園が見える。住人の姿はあまり見ないけれど、よく手入れしているのだろう。幾本かの樹や灌木、春夏秋を通して色とりどりに花も咲く。よそさまの庭の借景で申し訳ないけれど、窓の外に草木花々があるのって気持ちが落ち着くものだ。

ハドソン川が近いせいか、十階の部屋の外にもいろんな鳥が来る。ニューヨークの旧いアパートには大抵、壁の外に非常階段がついていて、見事な青の羽毛に包まれたブルージェイなんかが、 その手すりのところにとまって囀ったりもする。また、姿は見えず名前もわからないけれど、複雑なフレーズの見事な歌を朗々と何度も歌う鳥もいた。


こちらは近所のハドソン川沿いの公園を散歩するロビンとホシムクドリのみなさん。


小さなエレベーターには奇妙な「癖」があった。五階や八階など、わが十階より下の階の住人と乗り合わせるにはまったく問題がないのだが、十階以上の階の住人と乗り合わせると妙な事が起こるのだ。自分ひとりで乗る場合は、すんなり十階に止まる。下の階の住人と乗り合わせるときも、まず下の階、それからわが十階に止まる。けれども十階より上の階の住人と乗り合わせると、まずは十階に止まるはずが、素通りして上に行ってしまうのだ。それも、「十階と十二階」の組み合わせなら十二階に最初に止まるかというとそうではなく、なぜか十一階に止まる。十三階の住人と乗り合わせたときも同じ。(そういえば、英語圏では「十三」という数を避けたりするのではなかったか。いままで気づかなかったけど、このアパートには十三階があって、それが最上階になっている。)

じゃあ、十階より上の住人と乗り合わせた時に「常に」十一階に止まるかというと、それもそうでもない。こちらが身構えていて、「このエレベーター、十階は素通りするんですよね〜」などと相手と話しているときに限って、きちんと十階に止まったりするのだ。

(緑のこびとがいる)
と思った。

「緑のこびと」というのは自分でなんとなく想像したこびとだけれど、おとぎ話のランペルスティルツキンみたいな存在で、意地悪はしないけれども特別ひとを助けるでもなく、他愛もない悪戯をしかけては「シ、シ、シ」と笑ったりするのだ。きっとやつら(単数なのか複数なのかよくわからないけど)が、「ちょっとだけ困らせちゃおう」と笑いながらこちらを困惑させているに違いない。


こびとの姿はまだ見たことがないけれど、ホビット族のオクスマンさんとトロル族のベンのやりとりはなかなか面白かった。オクスマンさんはほんとに小さくて、でも赤白の横太ボーダーTシャツなんか着こなして、いつも葉巻をくわえたダンディなお洒落さんなのだ。ベンはいつも数週間は洗っていないのでは(というか洗ったことがあるのか)という感じのデニムのシャツと大きなジーンズ。身体は二倍ほどもあるベンが、オクスマンさんのことを「ボス」と呼ぶ。地下のランドリー室の手前にはボイラールームが、奥には昔の住人が置いていったテーブルや椅子、十年以上前のものと思われる冷蔵庫や、何かの部品があちこちに収納された作業室がある。「ボス」は大工仕事も得意らしく、いつも旧いラジオをかけて、なにやら忙しげに働いていた。

オクスマンさんは猫が好きで、わが愛猫ひめひめのことも可愛がってくれた。大家といえども一旦部屋を借りたら勝手に入ってくることはできないから、いつも部屋にいるひめひめとオクスマンさんが顔を合わせるのは、ひめひめを病院に連れて行くときに偶然逢ったときくらいのものだったけれど、いつも立ち止まっては愛しそうに彼女を眺め、「このこはほんとうに良い猫だねえ」とほれぼれした感じで云うのだった。

「はい、これから病院に行くんですよ」と云うと、
(ああ、可哀相に)といった感じに顔をしかめ、
「きみも出費が大変だ」などと心配するのだった。


ありし日のひめひめ。


わたしは、地下のランドリールームや、近所でばったりオクスマンさんに出くわすのが好きだった。どうやら、ラルフが云っていた「頑固者」な部分は、「昔はかなりそうだった」ということで、近年はずいぶん角が取れてきたらしい。奥様と暮らしていること、どこかニューヨーク州の北部に家を持っているらしいこと、くらいしか知らなかったけれど、彼にはなにか(やはりホビット族だ)と思わせる、人生を心から楽しんでいるような飄々としたところがあった。

「そういえばきみ、入居する前にオクスマンさんに手紙を書いたんだって?」

ある日近所でラルフと逢ったとき、そう聞かれた。そうだと答えると、ラルフは嬉しそうに笑った。

「とても感心していたよ。入居前に手紙を書いてきたひとははじめてだって。礼儀がしっかりしているって」

正直いうとこちらも、入居前に大家さんに手紙を書いたのはあれがはじめてだった。ラルフが「頑固者」なんて云うもんだから緊張したのと、それと、あの部屋の空気には、そういった「旧式」なことをしたいと思わせるなにかがあったのだ。

ユダヤ系のひとびとはキリスト教と同じく旧約聖書を読むけれど、クリスマスは祝わない。代わりに、同じ時期にハヌカと呼ばれる祝祭がある。でもユダヤ系ではない自分が「ハッピー・ハヌカ!」と書くのもなんだか気が引けて、クリスマスの時期にはひめひめの写真を貼付けたカードを送った。数日後、郵便受けに「きみのところの、可愛い猫の写真をどうもありがとう」という手書きのメモが入っていた。

そんなこんなで瞬く間に数年が過ぎたある冬、ランドリーの三つの洗濯機のうち二つが故障して、住民がみんな困るという出来事があった。けれど二ヶ月しても三ヶ月しても直してくれない。洗濯したくても、夜中などを選ばないと、洗濯機がなかなか空かないのだ。困ったなあ、と思ってランドリールームをうろうろしていたら、ごみを捨てに居りてきた8階のツルマキさん(わたし以外に唯一の日本人)に会った。

「洗濯機がひとつしかなくて困りものね」

そうですね、と答えると、ツルマキさんは云った。

「オクスマンさんが病気らしいのよ」
 
author : watanabe-yo
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オクスマンさんの家  第一話

【2014.08.04 Monday 13:58
オクスマンさんと出逢ったのは、五年前の、夏のはじめのことだった。

「眺めのいい部屋」を探していた。「上西町」と自分が呼んでいる(一般的にはアッパーウエストサイドと呼ばれる)一角でいくつかの物件を見て、漸く出逢ったアパートだった。


(マンハッタンのアップタウンといえば、セントラルパーク。上西町に住むのが好きなのは、この公園に歩いて行ける距離で暮らしたいから、でもある。)


ハドソン川からほど近い静かな一角の、表に蔦の絡んだ細長い建物。通りの両側には街路樹が枝を伸ばし、碧のアーチを作っている。ドアマンもいない小さな建物は、六階建てまではエレベーター無しが多い。けれどこの建物はにょろりと十三階まであるのでいっぱしにエレベーターがついていて、前世紀初頭に造られたと思われる鳥かごのように小さなそれにガタゴト揺られ、十階に辿り着いた。

「ここだよ」

ラルフという名のブローカーが扉を開けてくれてその部屋に入ったとき、少しびっくりした。南に開いた大きな窓、高い天井。厨房とバスルームにも小さい窓がある。同じ様な家賃でずっと小さく暗い部屋をいくつか見てきたあとで、それは拍子抜けするくらい明るく、透明さを感じる空間だった。

なのに、なぜか、妙に自分の感覚に自信が持てなくて、即決出来なかった。引越では百戦錬磨なので「今更なにを…」と自分でも驚いたのだけれど、その頃は公私共々いろいろと不安定だったので、「居を移す」事に云い知れぬ不安を抱いていたのかもしれない。

ブローカーのラルフはとてもいい奴で、時間を割いていろいろ相談にのってくれた。おかげで、その部屋に引っ越す事でどんないいことがあり、どんな未知の要素があるのか、整理して考えることが出来た。

そうだね、この部屋に住みたいです。そう告げたらラルフは銀縁の眼鏡を指で押し上げ、(君のためにもいちばんいい決断と思う)と云いたげにかすかに微笑んだ。


(この界隈には、こんな昔ながらの家々、通称「タウンハウス」もある。これはこの界隈でも特に美しい家たち。)


ラルフによれば、大家のオクスマンさんは少し「頑固者」らしかった。

「叩き上げでやってきたひとだからね。相手を信頼するようになるまで時間がかかるんだ。僕もユダヤ系だけど、ユダヤ人のおじいさんにありがちな愛すべき頑固者ってことさ。信用してもらえるまでに時間がかかるんだ。だけど、彼は借家人を追い出そうと嫌がらせをしたり、理不尽なことはしない」

そうか、じゃあ第一印象が大切だな。入居準備をする前に、手紙を書いた。

「拝啓 オクスマンさん。
このアパートに入居できて愛猫と共に嬉しく思っています、お会いする機会を楽しみにしています」

引越の手筈を進める頃、ラルフから連絡があった。

「オクスマン氏は入居する前に一度、借家人と会うのを好むんだ。敷金の支払いついでに、数分だけ面接をしてもらえるかい?」

大家の顔を一度も見ずに過ごすことも多いのがニューヨークのアパート事情なので、これは珍しい要請だった。でも、家賃をやりとりする関係だって、人間関係だもの。まして我々は、彼の持ち物である建物を住居として暮らすのだから、一度だけでいいから顔を合わせておきたい、と考えるオクスマンさんの感覚は、納得がいく。

それにしてもオクスマンさんと十数年のつきあいだというラルフが「少々頑固者でね」というひと。どんなひとなんだろう…。オクスマンさんは、わたしが借りることになるアパートから程近い建物に住んでいるらしかった。そこはドアマンつきの立派な住居だった。勿論、賃貸のアパートではなくて、コンドミニアム(日本で云うマンション)なのだろう。

「オクスマンさんに面会の約束いただいています」とドアマンに告げると、世紀末のウィーンみたいな渋めだけれど華やかな金色に彩られた廊下の端の、エレベーターに乗るように云われた。ここは専用のエレベーターマンまでいるのだ。オクスマンさんが何階に住んでいるのか知らなかったけれど、彼の名前を云っただけでエレベーターマンはうなずいて、この街ではまだ見かける、手で回すタイプのハンドルをガラガラと回し、エレベータはぐんぐん上に昇っていった。

どんなひとなんだろう? 童話に出てくるような、髭を長く伸ばしてかぎ鼻の、眼光鋭い魔法使いか、独裁者みたいな髭を蓄えたちょっと怖いおじさん。そんな想像をしながら、オクスマンさんの部屋の前に立った。
 
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たまゆら、の. . .

【2014.03.16 Sunday 05:55
 ニャンニャちゃん、窓を開けたよ。風はまだ冷たいけど、けれど確かに春を告げる暖かみを帯びた黄金の日射しが、この部屋にも注いでいます。



きみが天に翔びたった日も、こんなふうに窓を開けたね。苦しそうに浅い息を小刻みについていたきみは、窓から入る夜気にかすかに首をのばし、「あれ?」と、少し嬉しそうな顔をした。街が聖誕祭の灯りに彩られていた季節。あの日、十二月二十三日だけは、なぜか空気がとろりと柔らかかった。

前の週に海外出張に行っていた僕を、きみは、世話をしにきてくれていた友人の娘さんと一緒に待っていてくれた。あの時はまだ元気で——————。

三年ほど前から腎不全で一日おきに点滴が必要だったし、去年は糖尿病の診断を受けて半日おきに注射もするようになっていた。あんなに高いところに飛び乗るのが得意だったきみがベッドに自力で飛び上がれなくなって、だから小さなスツールとクッションを集めて階段をつくったね。その階段を、一段、一段、確かめながら上がるきみのふわふわな後ろ姿を見守っていたのは、ほんの昨日のようで。

3

夏の終わりから僕の仕事が忙しくなって、仕事と学校とで帰宅は毎日十一時過ぎていた。朝もバタバタと支度をして、教科書読みながら珈琲淹れて。

それでも朝いちばんに「今日はどれにしようか? 楽しみだねえ」と云いながら猫缶を選んで。きみがはむはむとごはんを食べる仕草を見守るのが何より好きだった。きみは以前まで使っていた「食卓」の高さでごはんが食べられなくなって、床に寝そべって「お膳」でごはん食べて。なにもかも、上手だったね。大好きなスープも綺麗に平らげて。ごはんもご不浄も、いつも、とっても、上手だったね。


秋の終わりごろからきみは、床に寝そべって前足を「猫組み」しながら、ときどきふと宙を見つめるようになった。

光の加減によって深い深い湖の色みたいになる黒曜石のあのでっかい瞳で、あれは床上数十センチくらいかしら? 誰か、僕の目には見えないひとが宙にいて、ニャンニャちゃんに会いにきたのかしら、と思っていた。




ひとにもどうぶつにも、「その時」が来ると、導いてくれる存在がいる————とも聞いたことがある。真実や科学的根拠なんてものは判らないけれど、そんなふうに天使や精霊のような存在がいたらいいなと思うし、いるのではないかと思うから、時折宙をじっと見つめるきみの瞳を追いながら、僕は心の底で、「その時」が近づいてくることを怖れ、覚悟していた。

あの頃、毎日毎日あんなふうに忙しくて駆けてばかりだった僕を、ひとりで待っているのは寂しかったでしょう。ごめんね。

どうしようもない量の「やらなくてはならない仕事」というものが目の前に堆積していて、毎晩ひとりで職場に残っては、「ニャンニャちゃん、ごめんね、ごめんね」て云いながら仕事をしていた。自分は莫迦だなあと思うけど、精一杯駆けて、駆けて、駆けて、それ以外、それしか、どうしようもなかった。

きみはいつもきろきろの丸い目で、家に戻った僕を見つめ、喉をごろごろ鳴らしながら迎えてくれたね。ふわふわのきみを抱いて、赤ん坊をゆするときみたいに軽くゆすると、きみは小さな前足を僕の首に回して、いっそう嬉しそうに喉を鳴らしてくれた。




聖夜も近づくあの頃、年を越す前にきみが旅立ってしまうなんて、思いもしなかった。出張から戻った翌日は、まだ元気だったものね。足腰が弱ってきていたのを心配していたけど、訪問診察に来てくれた獣医さんの前でも四本足で立って、歩いてくれた。血液検査の結果も良好だったし——————。

でもその翌朝から、急に歩けなくなってしまったね。前足をパタパタやりながら、きみは自分でも「あれ? 変だよ?」と当惑しているみたいだった。

ごはんやご不浄をどうするか、僕の友人の紋遜さんも駆けつけてくれて、看病を助けてくれたけれど。あっと云う間だった。あっと云うまに、ごはんも食べられなくなって。起き上がれなくなって。

ニャンニャちゃん、大きなまん丸い目でこちらを見ては、声にならない声で、話しかけてくれた、ね。

あの日はそれまでの寒さが妙に和らいで、空気が甘く、優しかった。

少しだけ降った雨のちょうどよい湿り気が、風に丸みを帯びさせて。きみを迎えるために、天使さまが、冬のさなかにぽっかりと空いたポケットみたいに優しいひとときをくれたのかなって、そんなふうに思える不思議な一日でした。




ありがとう、ニャンニャちゃん。

いろんな名前をもっていたきみ。

プリンセス・ニャニャムージカ・チャマスカヤ。長過ぎて発音できない名前を、獣医さんや看護士さんには「チャマ」て教えた。日本語では愛称に「〜ちゃん」とつけるのだと知った看護士のジーナは、うちに訪問診察に来るたびに「チャマちゃん! わたし、チャマちゃんがだぁーいすき!」と、きみを抱きしめてくれたね。病院でもきみは人気者だったし、通院のとききみを抱いて近所を歩くと、「まあなんて美猫でしょう!」とお褒めの言葉をいただくこともしばしばだった。

僕の書くものに登場するときは「ひめひめ」という愛称で登場してもらいました。英語でもよく「regalな子ね」と形容されていたけど、生まれながらに王族の風格を持っていたきみ。可愛い顔と不釣り合いな濁音の混じった声でよく叱ってくれたっけ。



ナナ、と呼んだりNoonaと呼んだりしたけど、いつも濁音の混じった元気な声で返事してくれたね。猫じゃらしのおもちゃを相手に「かくれんぼ」したり、シャカシャカのボールで猫サッカーもしたね。なんでも上手だったね。

オレゴンに引っ越したときも、紐育に帰ってきたときも、一緒だった。オレゴンでは毎朝早起きをして、向かいの軒のホシムクドリ一家が朝、飛ぶ練習するのを眺めていたっけ。

随分昔になるけど、日本にも行ったよね! 長く怖い空の旅。並んだケージの中、大粒の涙をこぼして怯えていたシャム猫めめちゃんの横で、きみはじっと身体をこわばらせて耐えていたっけ。(米国に戻れないかもしれない、という状況の中で旅させてしまったけど、あんな旅はもう絶対にさせないと誓った...


人生の中には辛いことや悲しいこともあって、自分の生きる意味さえ見失った時期もあったけど、そんなときもニャンニャちゃんがいるから、妙な事など考えず、自分は元気に生きてなくちゃいけないって思った。



はじめてこの街に来た冬、あの雪が降って、降って、降って、降り続いた冬に、上東街のアパートを借りたとき、家具と一緒に部屋に「ついてきた」きみ。元の飼い主だったひとは猫たちの世話もお願い、と云って他の街に行き、僕があの部屋を出るときも実にあっさりときみたちを連れていくことを快諾してくれた。そう、あの部屋ではじめて会ったとき、きみとめめちゃんはロフトベッドへ上がる階段の途中に腰かけて、「こんにちは」の代わりに、おでこに猫キスしてくれたのだったね。あの時から、いつも、そばにいてくれたね。

ジャンプが得意で、キッチンのいちばん高い棚にも登ったし、窓から非常階段へも飛び移っていたきみ。事故で六階から転落したときも、生きていてくれた。屋上に冒険に出ては、枯葉や黒くてもぞもぞする虫の「おみやげ」を持ってきてくれたっけ。上西街に越してからは、時々、赤いハーネスをつけて近所の公園にお散歩にいったね。石塀の上に腰かけて、ひげをふるわせながら、風の匂いを嗅いだね。

2

ありがとう、ニャンニャちゃん。

きみが翔びたった直後は、きみがいない家に帰ってくるのが怖かった。恐る恐る部屋の扉を開けるとしかし、まるでこの部屋にはまだきみがそこにいるみたいにまあるい気配が宿っていて。蝋燭を灯して、ありがとう、と祈り続けて、気がついたらもう空には春の明るさが戻りはじめているのだね。

ありがとう、ニャンニャちゃん。

きみの姿が見えず、声が聞こえず、抱きしめられないという事の不条理さ。きみの可愛い額を撫でたり、一緒に歌ったりできないという事の不可解さ。僕の心臓の下あたりにはまだ疑問符が、水溜りに広がる雨滴の波紋のようにふつふつと浮かんでは消えまた浮かび続けているのだけれど、きっときっときっとまた会えると信じています。



顔をあげて天を仰いでみても蒼い空のどこかにきみがいる、とはなかなか信じ難く、むしろ「天」と呼ばれるそれは目に見える世界の境界を越えたもうひとつの世界ではないかと思う。きみは軽々となった身体で雲の上に跳び上がり、得意げに此方を見下ろしたりしているのではないかしら。

聞こえるかな。
届くかな?


ありがとう。ずっとずっと、ずっと、大好きだよ。
 
author : watanabe-yo
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ごめんなさいまた今日も書けなかった

【2014.02.03 Monday 15:18
ごめんなさい、先週も今週もブログ書こうと思っていたけど、今日もだめだ...

秋から毎週続いてきた激務は漸く、少し落ち着いてきたのですが、夜学の勉強に追われています。
今学期は「合衆国憲法」、「会社法」、「メディア法」、「刑事と民事の狭間」という4コースを履修しています。この最初のふたつが大変なのだ!!!

合衆国憲法はたくさん読書の課題があって、いまはまだ19世紀〜20世紀初頭の判例が多いので文章が難しい(ていうか21世紀の判例も充分難しいよ)。その上、とても素敵な教授なのだが、授業の内容が高度すぎて、沢山の分析をしなきゃいけない、しかも頭がついて行けない。

会社法はまだなんとか、でも僕はもともとビジネスの素養がないから、なんというか、ピンとこない。車の運転判らない相手にクラッチの仕組みとか説明しても「ポカ〜ン」としてるでしょう、ああいう感じ。

そんなわけで日曜から月曜に代わる午前1時ですが、まだ予習している。ほんとうは、とても大切なことを、ここに書きたいのです。でも時間をきちんととって書きたいから、すみません、今日はこの「大慌て近況報告」をとりあえず記しておきます。

あ、ところでいままでこのブログでは自称「ワタクシ」を貫いてきましたが、これから「僕」も使いますがびっくりしないよーに。。。実はこどものころ、家では自分のことを「ボク」と呼んでいたのだよワタクシは。

さて、寝不足にならないよう、あと一時間だけ勉強してから寝ます。充分寝不足だなあ(ははは、、、、

週末はこんな感じで、家で勉強しつつ、洗濯とか買物とか(いつも朝出て夜遅く戻るから、週末は忙しいのだ)しています。ハドソン河沿いの空、今日はこんな感じだった。まだ寒いけど、冬の気配にどこか早春らしい柔らかみを感じました。

ごめんなさい、もうちょっと丁寧な文章を早く書きにくるよ!!!



*** 一夜明けて、追記 ***

結局昨夜は午前3時まで会社法の勉強して、だめだもう頭に入らん....と思って床に就いたものの授業の夢(?)を見て、6時半に起きたら学校から「雪のため本日休校」の報せが入っていました!! オオ、神は存在する!!
(ていうか高い授業料払っているから、本来なら「休校だとぉ!? 補講授業はあるのか!!」と要求するべきなのだが、とりあえずこっちもいっぱいいっぱいなのである...)

外はこんな感じ。


学校はヤワだからすぐ休校しちゃうけど(だから助かる...にゃは)
職場へは当然、行きます。でも夜の数時間だけでも今夜予習が出来ると思うと嬉しいよ。頑張って追いつかなくては!!  
毎週こんな感じなのです。

みなさまの一週間のはじまりが...もう少し穏やかなはじまりであることを願いつつ。
author : watanabe-yo
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2014年 葉的Manhattan★Hour、再開させていただきます!!

【2014.01.24 Friday 10:58
みなさま

長らく御無沙汰しておりました。怒濤の日々が過ぎ、現在もまあ日々是怒濤なんですが、波乗りに慣れてきたかな(汗
ロー学の日々のこと、日々のよしなしごと、などをせめて400字くらいずつでも書きたいよね、と思っておりました。

いろんな事情があってなかなかブログを書けずにいましたが、また再開したいなと思っております。技術的な事情があり、これまで書いていたバックナンバーのほとんどが消えてしまいました(涙

これはね、喩えていえば、なれそめはそもそも空色庵のみんなと同じに「玄関」から出入りしていたものの、ちょっと途中で自分だけ「お勝手口」を使うようになり、しかし「お勝手口」が洪水で崩壊してしまい、また「玄関」に戻ってきたら、「お勝手口」においといた靴がみんな流れてしまってもう跡形もないのよ、という事態と似ています。
ワカルカナー
と、とにかく、御免。

でも、おれ、帰ってきたから。

というわけで一応この投稿は試運転ですが、この週末にでも2014事始め、の回を書きます。

以前の投稿は「基本3000字くらいの、まとまった読みもの」を自分に課していたのですが、目下の仕事&学業二足草鞋状況に鑑みると3000字というのは「いいからそこから走ってきて棒高跳びやってみろよ」というのと同じくらい焦るっていうかびびるっていうか足がすくむ要素となるので、一回に400字くらいのお手軽エントリーにておしゃべりを再開したいと思います。

、、、てここまでで数えたら600字。なんだ、できるわ!!

そう云う訳で、すみません、勝手なことばかり云ってるけど、また遊びにきてください〜❤
author : watanabe-yo
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試運転

【2013.12.27 Friday 12:48
再開に向けて試運転ちうです。

author : watanabe-yo
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渡辺 葉
NY&NJ attorney
writer
translator
interpreter